「べらぼう」が100倍わかる!ぶらり吉原
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(12)江戸時代も忌み嫌われたのはパワハラや押し付けだった
1678年に完成した「色道」の指南書、「色道大鏡」の話を続けよう。作者の藤本箕山は京都の富裕な商人の子どもだったことは前回触れた。しかし、箕山は「色道大鏡」を書くにあたって、バカになっている。バカと…
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(11)「女遊び」の指南書、「色道大鏡」に書かれていること
太夫と遊ぶにはいくらくらいかかったのか。以前、この連載で50万円くらいと紹介したが、それは1回目の話で、太夫クラスになると、初めて会って、すぐ契りを結ぶことはない。2回、3回と通って馴染みとなり、初…
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(10)三大遊女、吉原の高尾を巡る数々の伝承
徳川幕府の政治も安定し、景気も上昇ムードだった1650年ごろ、巷ではこんな言葉がはやったそうだ。 「京の女郎に江戸吉原の張りをもたせ、長崎丸山の衣装を着せて、大坂新町の揚屋で遊びたい」 …
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(9)吉野太夫というヒロインが生まれた時代背景
京都では春を彩る絢爛豪華な行事が今も行われている。4月の第2週の日曜日、「吉野太夫追善花供養」と呼ばれているものだ。 場所は、常照寺(京都市北区鷹峯)。朱塗りの山門(赤門)を寄進したという故…
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(8)三大遊女・吉野にまつわる粋な伝承
時代が寛永期(1624~1643年)に入ると、寛永文化が花開いていく。京都の桃山文化を継承し、幕府体制に順応した文化で、天皇の京都、将軍の江戸という二つの拠点を持った二焦点文化ともいわれる。この時代…
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(7)太夫と遊ぶには飲食代も含めて50万円が必要だった
江戸時代の初め、遊郭で遊ぶとどれくらいの金がかかったのだろうか? 例えば、「好色一代男」では、太夫に会いに行くのに銀53匁と記されている。8万円といったところか。ほかに飲み食い費用やチップもある。少…
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(6)市民革命を経験せずに庶民の文化が花開いた特異性
日本橋小網町を歩いていると、親父橋跡地がある。江戸時代、日本橋川の支流に架けられた橋の名残で、親父橋の親父は元吉原創設を働きかけた庄司甚右衛門のこと。遊郭の総名主を親父と呼んだのだ。元吉原が許可され…
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(5)吉原の遊郭を認める際、江戸幕府は五カ条の条件を出した
元和3(1617)年、申請から12年、吉原(元吉原)に遊郭が認められた。今の浅草方面(新吉原)ではなく、人形町付近の葦原(後に吉原と改名)である。 江戸で遊郭はなぜ、なかなか認められなかった…
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(4)吉原は最初の請願から許可まで、12年の歳月を要した
慶長元(1596)年、家康が駿府の二丁町に遊郭をつくり、都市にも遊女が集まり出したと前回書いた。跡地の稲荷神社には「吉原発祥の地」という碑が立っている。明治時代の静岡県知事が建てたものだが、同じく、…
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(3)吉原ができる前に大手町界隈にはなまめかしい湯女がいた
遊女の歴史は古いが、中世までは散娼だった。集娼となったのは近世以降のことである。散娼とは、組織化されていない遊女のこと。集娼とは、吉原のように組織化され、管理下に置かれた遊女である。 元吉原…
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(2)中世まで遊女は管理されず、神事も担った
吉原が営業を開始したのは元和4(1618)年とされている。ここでいう吉原はいまの浅草界隈ではなく、人形町・日本橋界隈にあって、区別するために元吉原と呼ぶ。 もちろん、遊女の歴史はもっと古く、…
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(1)文学から民俗学、人類学、女性史まで…数多の学者が挑んだ光と闇
NHKの大河ドラマ「べらぼう」の影響で「吉原」に大きな注目が集まっている。江戸時代、吉原は大門をくぐれば、別世界が広がっていた。吉原とはどういうところで、女郎とはどういう存在だったのか、その歴史も含…