遊女の格の話を続けよう。新吉原ができて十数年、17世紀後半の寛文期に入ると、散茶女郎と呼ばれる遊女が人気となった。私娼を取り締まったため、私娼が吉原に流れ、公娼として新参遊女となったのである。格から言えば太夫、格子女郎の下だったが、その安さと手軽さが受けたことは前回までに書いた… 
                
                                                    
                                
                                                        
                                                    
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