沢田研二
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【人間60年・ジュリー祭り】の翌日に書いた「幻のブログ原稿」公開
拙著『沢田研二の音楽を聴く 1980-1985』の最後をこう締めた。 ──最後に、『人間60年・ジュリー祭り』の翌日に、自分のブログ(現在は閉鎖)に書いた一言をもって、長いようで短かった半年間を締めくくりたい。「何をくよくよと...
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プロデューサー小坂洋二は「5年以内にレコード大賞を獲らせます」を有言実行した
1975年を代表する曲である。何といっても、この年の日本レコード大賞受賞曲だ。 作詞・作曲はフォークの世界で名を上げ始めていた小椋佳。ここで驚くべきは、布施明が所属した渡辺プロダクションの「フォーク取り込み戦略」である。 ...
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【高田文夫】のラジオで語られた、沢田研二絡みのとっておき「エピソード」2つ
先週のニッポン放送『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』で、沢田研二の話題が2回出たので、ここでリポートしておきたい。 1回目は、6月2日(月)の回。ゲストは中山秀征。トークの中で中山が「志村けんが絶対に遅刻をしない」というエピソ...
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【シーナ&ザ・ロケッツ】のシーナと沢田研二との間に起きた「一触即発」とは?
6年前の忘れられない記事である。私も連載している東京スポーツに載っていたダイアモンド☆ユカイと鮎川誠の対談。 中に突然、沢田研二が出てくるのだ。それもシーナ&ザ・ロケッツ(シナロケ)と一触即発になったというのだから、何ともき...
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【大阪弁護士会】石田法子会長と沢田研二の2015年新春対談の「読みごたえ」
あまたある沢田研二のインタビューの中でも、もっとも読みごたえのあるものの1つだろう。 媒体は何と「月刊 大阪弁護士会」。その2015年1月号に、沢田研二と石田法子大阪弁護士会会長による「新春対談」が載っているのだ。これがすご...
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【渡辺晋】のことを沢田研二はどう思っていたかを示す知られざる「1曲」とは
渡辺プロダクション(ナベプロ)、そして沢田研二在籍時に、ナベプロの創業者にしてドンだった渡辺晋について、人々はどういうイメージを持っているのだろう。 世代にもよるだろうが(というか若い人たちはご存じないだろうが)、私世代にと...
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【ジョニ・ミッチェル】を教えてくれたザ・タイガースの「アルバム」とは?
ジョニ・ミッチェルという、カナダ出身の有名なシンガー・ソングライターがいる。映画『いちご白書』(70年)の主題歌(=バフィ・セントメリーのカバー版)となった、ジョニの曲『サークル・ゲーム』は、世界一好きな曲の1つだ。 実は私...
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【エディ藩】が加橋かつみ脱退後、ザ・タイガースに入っていた「可能性」
元ザ・ゴールデン・カップスのエディ藩が亡くなった。死因は感染性心内膜炎。享年77。 カップスのギタリスト兼ボーカリスト。ギタリストとしては、ブルースからブリティッシュ物までも器用にこなし、グループサウンズ(GS)の中でも際立...
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【大滝詠一】が沢田研二との仕事で犯してしまった「致命的ミス」とは?
あのとき大滝詠一が、そんなつまらない凡ミスを犯していなければ、もっと早くブレークしたのではないか。『A LONG VACATION』(81年)を待たずに、また「ライバル」細野晴臣より先に、時代の寵児になっていたかもしれない──。 ...
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【今僕は倖せです】のジャケットに表れた沢田研二の「性格」と「気分」
1972年9月に発売されたアルバムの正式名称は『JULIE IV 今僕は倖せです』。あまたある彼のアルバムの中でも、もっともユニークなジャケットデザインの1つだろう。 マーカー(当時風にいえば「マジック」)による手書き文字(沢田...
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【岸部一徳】(当時:修三)の激しいベースプレイが楽しめる「あの3曲」
1970年8月22日、田園コロシアムで行われたザ・タイガースのコンサートの模様は、アルバム『ザ・タイガース・サウンズ・イン・コロシアム』(71年)として市販された。また映像も残っていて、DVD BOX『ザ・タイガース フォーエヴァー...
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【アルバム『彼は眠れない』】「沢田研二1980-1985」が「復活」した、あの秋
ココロから離れ、再び吉田建とタッグを組んだ1989年のアルバムが『彼は眠れない』だ。 クレジットを見ると、ベースに吉田建、ドラムスに村上"ポンタ"秀一、ギターには佐橋佳幸、下山淳ら、キーボードに西平彰、ホッピー神山ら、という...
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【CO-CóLO】を沢田研二がどう捉えていたのか、その「驚きの真実」
エキゾティクスの後、沢田研二のバックバンドとして活動したのが『CO-CóLO』(ココロ)だ。アルバム『CO-CóLO 1~夜のみだらな鳥達~』(86年)のクレジットによれば、メンバーは、沢田研二(ボーカル)に続いて、 ・チト河...
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【10 YEARS, ROMANCE ザ・タイガース写真集】で再度納得する「あの話」
連載で引用しようと思って、チャンスがなかった写真集である。奥付を見ると「1982年3月17日初版発行」「定価 2000円」「編 ザ・タイガース同窓会」「発行 第三書館」とのこと。 シングル『色つきの女でいてくれよ』、アルバム...
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【後藤次利】はどのように『TOKIO』の「超絶編曲」へと行き着いたのか
日刊ゲンダイの連載をまとめた『「沢田研二の音楽を聴く1980-1985」』 が、ついに発売されました。何卒よろしくお願いします。 ◇ ◇ ◇ さて。まさに「人間交差点」という感じの「沢田研二1980-1985」を...
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【『NON POLICY』のジャケット】早川タケジの「芸の細かい」傑作デザイン
「沢田研二1980-1985」のジャケット群の中で、いちばん好きなものを聞かれたら、シングルでは連載でも激賞した『渚のラブレター』(81年)だが、アルバムだと僅差の中、『NON POLICY』(84年)がいちばんだと答えたい。 ...
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【萩原健一】ショーケンが見つめたライバル=沢田研二の「すごみ」
言うまでもなく、沢田研二といえば萩原健一である。ジュリーとショーケン。「阪神タイガースと読売ジャイアンツ」に並ぶ、昭和を代表するライバル関係だろう。ま、タイガースといっても、この場合はザ・タイガースとザ・テンプターズなのだが。 ...
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【宝島】サブカル雑誌の表紙を飾る2人の沢田研二の大きな「変化」
雑誌『宝島』。いわゆる「サブカル雑誌」の代表的存在。画像に写っているのは沢田研二が表紙となった『宝島』2冊。右は81年5月号。左は84年6月号。 同じ雑誌、同じ被写体で、これほどまでに変化するかね。81年版はいかにもニューウ...
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【矢沢永吉】キャロルとジュリー、ロックンローラーたちの一瞬の「邂逅」
沢田研二と矢沢永吉。この1歳違いのロックンローラーたちの音楽活動が交差することは、ほとんどない。数少ない接点といえば、矢沢永吉にインタビューをして『矢沢永吉激論集 成りあがり How to be BIG』(小学館~角川文庫、累計20...
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【アルバム『TOKIO』のビジュアル】封入された70年代と80年代の「狭間」
アルバム『TOKIO』には2つのビジュアルが封入されていた。いかにもニューウェーブ沢田研二な左と、いかにも70年代沢田研二な右上(右下はジャケットで、その上に乗っているのが帯)。2つのビジュアルの併存は、このアルバムが、まさに70年...
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【井上忠夫】のちの井上大輔が沢田研二に振りかざした「日本人論」とは?
これまで「沢田研二の音楽1980-1985」をご愛読いただきありがとうございました。ご好評のうち連載を終えましたが、著者のスージー鈴木氏には、まだまだ書きたいことが、山ほどあるのです! 今後は、連載で語り尽くせなかったエピソードやこ...
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歌い続けてくれた事実に感激して初めて泣いた
1984年までを沢田研二ソロ第1期。渡辺プロダクションから独立して「灰とダイヤモンド」を歌った85年以降を第2期とするなら、第3期は、2008年以降ではないだろうか。 厳密には、08年の秋以降。沢田研二の還暦を記念して開催さ...
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80~85年の沢田研二には、歌謡曲に限らずロックもニューミュージックも敵だった
ついに100回。連載もラスト3回残すのみ。 「沢田研二1980-1985」最大の功績は、まずは「ロックと歌謡曲の融合」だろう。 1980年当時、まだ「ニューミュージック」という言葉があった。「ビートルズや吉田拓郎の影響...
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40年経った今も活動を支える柔らかくて温かい声質
このアルバムの最大の聴きどころが、1曲目を飾る「指」だということに異論は少ないと思う。 何といっても、アルバム冒頭から約7分の大作なのだ。 松本一起による「指」をめぐるアダルトかつ、ちょっぴりエロチックな歌詞を、大野...
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トシちゃんやマッチには歌えない、大人っぽい曲を歌ってやる
いよいよ本連載で取り上げる最後の作品。 まず目を引くのは、全9曲の編曲と、「灰とダイヤモンド」を除く、全8曲の作曲を担当した大野克夫の起用である。「沢田研二&大野克夫」のアルバムと言っても、まったく過言ではない。 同...
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大実験の成果は第一線のプレーヤーたちに引き継がれた
「沢田研二1980-1985」の自己否定──という前回書いた内容について、いきなり私自身が「自己否定」するわけではないのだが、逆の視点からも考えてみたい。 つまり「沢田研二1980-1985」がもし、「沢田研二1980-198...
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自ら「創造しい」6年間に終焉を告げた言葉たち
「灰とダイヤモンド」の本質は、その歌詞にあると思う。 作詞:李花幻は沢田研二自身。「李花幻=いいかげん」とは反語になっていて、これでもかこれでもかと、徹底的に内面を吐露しているように読めるものだった。 言い換えると「沢...
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80年代前半の黄金期メンバーがみーんな、いなくなった
タイトル「灰とダイヤモンド」は、1959年のポーランド映画からの引用。この映画の中で描かれているのは、45年、ドイツ降服直後のポーランドだ。 しかし、この曲を聴いて、私が想起するのは、45年のアメリカ映画のタイトル「そして誰...
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彼こそが日本の「ロックンロール・ボーカリスト」の源流だ
ロックンローラー・沢田研二が「AMAPOLA」を、格別な歌唱力で聴かせる意味について、前回に続いて、考えを巡らせる。 この連載は、ここまで読み続けていただいた方なら分かってもらえる通り、「沢田研二=ロックンローラー」という大...
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当時は意義を見いだせなかった格別な歌唱力
「沢田研二1980-1985」の中で、これほど評価が激変したシングルはない。 当時高3の私が「なんで、こんなスタンダードを、沢田研二が歌っているんだろう?」と怪訝に思いながら、聴いていたことを思い出す。 タイトルはスペ...