五木寛之 流されゆく日々
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連載12134回 九十歳の壁の実態 <2>
(昨日のつづき) 以前、高齢者の運転免許の講習のときに、 「きょうは何年何月の何日ですか」 と、きかれたことがあった。 とっさにたずねられて、少々あわてた記憶がある。 歳をとると、誰…
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連載12133回 九十歳の壁の実態 <1>
<七十歳の壁> とか、 <八十歳の壁> とかいう言葉が一時はやった。 <壁>というのは、ひとつの限界のことである。 そこを越えると、別世界に足を踏み入れることになる。それまで生きてきた…
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連載12132回 後悔さきにたたず <5>
(昨日のつづき) つらかった事、苦しかった事を、忘れようとつとめる人がいる。 その反対に、昔の痛みを絶対に忘れずに、その苦境の記憶をバネにして生き抜いていこうとする人がいる。 昔の事でクヨ…
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連載12131回 後悔さきにたたず <4>
(昨日のつづき) あとになってから、しまった、せめて日記でもつけておけばよかった、と後悔するのは、1945年8月15日以後の日々である。 北朝鮮で敗戦を迎えてからの行動を、簡単でいいから、なぜ…
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連載12130回 後悔さきにたたず <3>
(昨日のつづき) 以前、『懺悔の値打ちもない』という歌が流行ったことがあった。 <懺悔とは、犯した罪を神仏の前で告白し、悔い改めること 誓うこと> と、辞書にはある。 故・梅原猛さんが本…
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連載12129回 後悔さきにたたず <2>
(昨日のつづき) 自分の歩いてきた道をふり返ってみると、後悔することはいくらでもある。 あの時、こうすればよかったのに、と口惜しいことだらけだ。 しかし、私は本来、いい加減な体質で、それら…
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連載12128回 後悔さきにたたず <1>
人はある年齢に達すると、自分のルーツに対して急に関心を抱くようになるものらしい。 作家でも有名な先輩がたが、急に先祖の話を書きだしたりして、けげんに思ったりすることがあった。 私は昔からデラ…
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連載12127回 アヒルの養生論 <10>
(昨日のつづき) ヒトの体というのは面白い。 歳とともに衰えていくものだが、また扱いようによっては意外な反応を示すものである。 私はこれといった趣味をもたないが、自分の体には興味がある。 …
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連載12126回 アヒルの養生論 <9>
(昨日のつづき) 昔はカメラのピント合わせは、いちいち手でやっていた。今はなんでも自動の時代だ。その便利さに驚く。 しかし、人間の眼は、何万年も前から自動焦点である。その機能の精密さは呆れるほ…
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連載12125回 アヒルの養生論 <8>
(昨日のつづき) ヒトの情報集配活動のうち、特に大事なのは視覚である。 幸運にもあたえられた視力は、できるだけ大事にしなければならない。 視力のなかでも、眼球のレンズ機能はじつに驚くべきも…
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連載12124回 アヒルの養生論 <7>
(昨日のつづき) 眼球の焦点トレーニングにしても、その他の養生法にしても、やることは子供の遊びのようなものだ。単純で幼稚な遊びである。セオリーもエビデンスもない。 ただ面白いからやる。しかし、…
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連載12123回 アヒルの養生論 <6>
(先週のつづき) 眼球の焦点合わせのメカニズムなど、私にはわからない。 だが、それが凄い能力であることは感じられる。一瞬、視界を変えた瞬間に目に映るものに焦点がピタッと合うのだから。 その…
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連載12122回 アヒルの養生論 <5>
(昨日のつづき) ふだんやっている実感としては、上下の瞼を素早く閉じたり開いたりしている感覚だが、実際には、下の瞼はそれほど動かない。上の瞼をシャッターをおろすように上下させている感じである。 …
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連載12121回 アヒルの養生論 <4>
(昨日のつづき) まず<目>。 人は情報をさまざまな器官によって取り込む。視力はそのうち最も大事なものの一つだ。 ことに私たち書くことを職業としている人間にとって、読むこと、視ること、そし…
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連載12120回 アヒルの養生論 <3>
(昨日のつづき) <アヒルの養生論>とは何か。 それは目立たない養生のことである。アヒルが水の上をゆっくりと動いていく。一見、スムーズに、気楽に動いているようだが、実は水面下で水カキのついた両脚…
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連載12119回 アヒルの養生論 <2>
(昨日のつづき) 私は昭和7年に生まれた。1932年の9月30日である。 奇しくも故・石原慎太郎さんと生年月日が一緒だ。仕事も、考え方も違うが、同年同日の生まれとあって、気になる存在だった。 …
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連載12118回 アヒルの養生論 <1>
70歳の壁とか80の壁とか言っているが、その辺の壁は大したことはない。 本当に大変なのは、90歳をこえたところにそびえている巨大な壁である。 あれこれ声高に論じておられる先生がたも、まだ実際…
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連載12117回 玉石混淆の世の中 <5>
(昨日のつづき) きょうは月刊誌『致知』の対談。 対談のお相手は、旧知の帯津良一さんである。 世間では医師や弁護士に対しては「センセイ」と呼ぶのが習慣だが、私は基本的に対談の場では「さん」…
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連載12116回 玉石混淆の世の中 <4>
(昨日のつづき) なんとなく気持ちがシーンとする時があるものだ。 「憂」という感じでもあるし、「鬱」という気配もあるし、いずれにせよ気持ちがダウンしている状態である。 これに対して、気分は沈…
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連載12115回 玉石混淆の世の中 <3>
(昨日のつづき) 90歳を過ぎるまで病院というものには、ほとんど縁がなかった素人だけに、先日、ある大病院を訪れてカルチュアショックを受けた話の続きである。 病院というところは、医師と患者とが膝…