サッカー
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武漢三鎮足球倶楽部 質が上がったのに超級リーグ7位に終わった要因
2023年の6月から、中国の超級(1部)リーグ所属の「武漢三鎮足球倶楽部(湖北省武漢市)」のヘッドコーチとして働いています。 今シーズンは、12月6日のアジアチャンピオンズリーグ(ACL)のグループリーグ(GL)・ホームでの...
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今の代表よりも「したたかさ」はメキシコ五輪代表が上かも知れん
ガンバ大阪の監督を続けることができず、傷心の日々を送っとった1995年の1月。早稲田大体育会の大先輩・自民党の森喜朗幹事長から「早いとこ、準備しなさい。夏の参院選比例区に立候補してもらう」と言われた。「学級委員もやったことがありませ...
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埼スタに乗り込んでACL浦和戦「日本のクラブと対戦」の夢がかなって達成感
ゲンダイ読者の皆さまとは、もしかしたら11月にお会いしていたかも知れませんね。 11月29日に中国・超級(1部)リーグ「武漢三鎮足球倶楽部(湖北省武漢市)」のヘッドコーチとして、アジアチャンピオンズリーグ(ACL)のグループ...
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ガンバ監督時代、サイン直前のブラジル代表FWカレカを日立にさらわれた
「釜本の裸体をポスターにした男」、日本サッカーリーグ事務局の木之本興三さんは、プロリーグ創設の旗振り役としても奔走していた。「プロ化しないと日本サッカーはダメになる」と熱弁をふるう木之本さんに「W杯常連国にはプロがある。同感や。応援し...
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ヤンマー退職時に「後ろ盾がなくなったら苦労するでぇ~」と脅かされた
33歳で日本代表を引退した。それからヤンマーで監督兼選手としてプレーし、1984年の元日の天皇杯決勝が現役最後の公式戦やった。39歳で3本線の入った愛用のスパイクを静かに置いた。 8月25日の引退試合には「神様」ペレ、「左足...
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JSL公式ポスターでヌードの依頼 裸になっても“出演料”は手土産のマロングラッセ
1977年9月14日のニューヨーク・コスモス戦で日本代表のユニホームとおさらばした。 国際Aマッチ76試合で通算75ゴール。まぁ抜かれることはあらへんやろうなと思うとったら2011年の女子W杯優勝の立役者・なでしこジャパンの...
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クラブW杯準決勝 アジア王者の浦和レッズがマンチェスター・シティーに0-3で完敗
サッカーのクラブワールド杯は19日(日本時間20日未明)、サウジアラビアで準決勝が行われ、アジア王者の浦和レッズは欧州王者のマンチェスター・シティー(英)に0-3で敗れた。 前半、浦和のシュート0に対しマンCは10本。浦和は...
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北米リーグから「家と車と月給2000ドル」で誘われたけど「行かへん」と即答した理由
1968年はメキシコ五輪、日本サッカーリーグ(JSL)で得点王となり、翌年元日の天皇杯決勝では三菱を自分のゴールで1-0で下し、ヤンマーに初タイトルをプレゼントすることができた。でも、69年6月に急性ウイルス性肝炎に襲われて戦線離脱...
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軽業師の“ネコ”に「マーク役が1人、2人、いや3人いてもオレにパスを出せ!」と言った
関西の弱小チーム・ヤンマー(現C大阪)に入社(1967年)し、初めて練習に参加した瞬間に「エライこっちゃ」と途方に暮れた。諸先輩には失礼ながら「ヘタクソばっかりと違うか。どうしたらええんか、こんなチームで……」とブツブツつぶやいてし...
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2月に免許証を返納…孫娘の「ジイジのこれまでが台無しになる」に心を動かされた
前回連載分(60回)で「25歳の時に日産スカイラインGTを買った」ことを書いた。車にまつわる話をしてみよか。 1967年に早稲田大を卒業。ヤンマーに入社してから普通自動車の免許を取った。そうなると自分の車が欲しなる。早大蹴球...
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ドイツ留学の日当100万円でシルバーの「スカイライン2000GT」を買うた
早稲田大を卒業(1967年)して地元・関西のヤンマー(現セレッソ大阪)に入社することになったけど、在学中にヤンマーの人事担当やスカウトに会ったことは、ただの一度もなかったな。 2年生の秋、合宿所を出て早大近くの下宿に引っ越し...
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サッカー日本代表は来年3月北朝鮮戦に戦々恐々…“アウェーの洗礼”とケガ覚悟のラフプレー
2026年W杯アジア2次予選で11月16日の地元でのミャンマー戦、21日の敵地でのシリア戦をいずれも5-0で勝利し、国際Aマッチ8連勝を達成した。 好調キープの森保ジャパンは7日に日本代表メンバーを発表し、元日に国立競技場で...
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優勝しても得点王になっても、給料はヤンマー退社まで一般社員と同じやった
早稲田大4年生(1966年)の7月やった。早大蹴球部同期の森ちょん(孝慈=元代表、元代表監督)と一緒に三菱サッカー部の創設者である岡野良定さん(元三菱自動車工業会長)と会った。 その場で正式に入社が決まったというわけやなかっ...
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大先輩の川本泰三さんにヤンマー本社に連れていかれて…「お世話になります」と答えるしかなかった
早稲田大ア式蹴球部に鉄拳制裁、いじめといったハラスメントのたぐいは一切なかった。門限に遅れたりすると「グラウンドを走ってろ!」と言われるくらい。ビンタの一発もなかった。関東では、慶応大のソッカー部もなかったようや。他の大学は……今だ...
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J初代チェアマン川淵三郎さん文化勲章受章 87歳でも持論熱弁、そして今後の軸足は?
10月21日に文化勲章を受章した川淵三郎・Jリーグ初代チェアマン(JFA第10代会長)の「受章を祝う会」が11月30日、新国立競技場で開催された。 祝う会には、JFA名誉総裁の高円宮妃殿下をはじめとしてサッカー関係者、政界関...
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万年金欠だった早大時代、練習オフ日は代表先輩の会社にタカリに行っていた
早稲田大1年目(1963年)の秋の関東大学リーグを7戦全勝で優勝し、11ゴールを挙げて得点王のタイトルを獲得した。東京・東伏見のグラウンドでたき火をしながら部員全員がグルリと輪になり、翌春に卒業する4年生が号泣しとった。 「先...
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早大のオンボロ合宿所で布団1枚分の「タコ部屋暮らし」の思い出
早稲田大に入学したのは1963年春。同期に広島、福岡、茨城とか地方出身者が6人いた。 親元を離れた新人は、全員が早大ア式蹴球部の合宿所に入るのが決まりやった。最寄り駅は西武新宿線の東伏見駅。陸上部やホッケー部、ラグビー部やス...
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早大蹴球部で再会…1学年上の森孝慈さんは浪人して一般受験で合格していた
高校選びで父・正吉と意見が真っ向から対立したけど、大学を決める時もひと悶着あった。 戦前から三菱系の企業で働いていた父の願いは「京都・太秦の自宅から通える関西学院大に進んで三菱重工に入社する」やった。勤務先の上司に関学大サッ...
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元なでしこ“ボンバー”こと荒川恵理子さん 44歳でも現役バリバリは「ケガがきっかけ」の真意
8月20日にスペイン優勝で幕を閉じたFIFA女子ワールドカップ。なでしこジャパンはベスト8と健闘し、大いに盛り上げてくれた。女子サッカー選手といえば、ボンバーヘッドでアテネ五輪などで活躍した荒川恵理子さんが思い出される。荒川さん、今...
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強豪・山城高に入学したくてハンストをやったというのは“デマ”や
奈良県出身の父・正作は、関西大で勉強しながら「弁護士を目指していた」と母・よしこから何度も聞かされた。それから「弁護士の妻になれると思って嫁いでみたら……だまされたわ」とボヤくのが常やったが──。 夢破れて京都市で警察官にな...
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釜本家では「地震・雷・火事」ときて最後は「オフクロ」だった
現役時代というか、今でもそうだが、自分の背丈は「179センチ」ちゅうことになっている。本当は181センチ。生まれた当時は「大男総身に知恵が回りかね」という言葉が一般的やった。高身長は「動きがのろくてトロくさいヤツ」というイメージやな...
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森保ジャパン“5得点荒稼ぎ”W杯予選アウェーのシリア戦、テレビもネットも「放映なし」の舞台裏
2026年北中米(米国、カナダ、メキシコ)共同開催W杯アジア2次予選で森保ジャパン(世界ランク18位)が21日、中立地のサウジアラビアでシリア(同92位)と対戦して5-0で圧勝した(日本時間午後11時45分キックオフ)。 序...
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野球じゃなくてサッカーを選んだのは、姉という「陰の仕掛け人」がおったから
メキシコ五輪得点王の看板をぶら下げて「W杯に出場してドイツでプロになる」と思っていた矢先にウイルス性肝炎にかかった。25歳やった。絶対安静で療養に専念。女性のウエストほどあった太ももが、みるみるうちにやせ細っていった。 でも...
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ウイルス性肝炎で50日間の強制入院 イメージ通りに体が動かなくなった
1969年6月中旬にウイルス性肝炎と診断されて兵庫・西宮病院に強制入院となった。感染経路は不明。前年のメキシコ五輪から過密日程が続き、2月にはインドネシア、カンボジア、マレーシア、タイ、シンガポールをヤンマーの単独チームで回った。ど...
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「なぜドイツに移籍しなかった?」何度も聞かれた質問、今の釜本の答えはこうや
1968年メキシコ五輪で銅メダルと得点王のタイトルを獲得すると海外のプロ6クラブから誘われた。ドイツ1部の1860ミュンヘン(現3部)、五輪本大会の10カ月前に留学していた2部ザールブリュッケン(現3部)のどっちでプレーしようかな…...
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Jリーグの複数クラブが国税局から申告漏れを指摘されていた…スポーツ報知が報じる
サッカーのJリーグに加盟する複数クラブが、国税局から申告漏れを指摘されていたことが分かったと、10日のスポーツ報知が報じた。 記事によると、主にクラブ側が負担している外国人選手の報酬に課される納税をめぐり、所得税だけが適用さ...
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「メキシコ五輪得点王」になって海外の6つのプロクラブから誘いを受けた
メキシコから帰国したのが1968年の10月28日の午後10時前くらい。 羽田空港で大勢のサポーターたちの出迎えを受け、テレビカメラのまぶしいライトを浴びながら歩く……なんてイマドキの光景はなかった。 翌29日に東京・赤坂...
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メキシコ五輪直後の「世界選抜チーム」入りは結婚式があるので断った
1968年10月24日にメキシコ五輪の3位決定戦でメキシコを破って銅メダルを獲得し、25日は自由時間だったので選手村で同室だった早稲田大3学年先輩の松本育夫さん、関西大OBでヤンマーの1期後輩だった湯口栄蔵と繁華街をブラブラした後、...
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「それって何ですか?」アジア人初の五輪得点王の裏で起こっていたこと
1968年メキシコ五輪の3位決定戦で開催国のメキシコを破った日本代表は、サッカークレージーだらけの地元メキシコ人にしてみたら「銅メダルを持ち去った憎きハポン(日本)」ということになるが、彼らは日本に対してリスペクトの念を持って接して...
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1968年メキシコ五輪表彰式では、なぜか岡野コーチの首に銅メダルがぶら下がった
1968年メキシコ五輪は、開催国メキシコもアジア代表の日本も、参加16カ国が等しく「中1日」の強行日程を強いられた。 10月24日の3位決定戦も、22日の準決勝から「中1日」でキックオフされた。しかし、決勝だけは特別やった。...
