保阪正康 日本史縦横無尽
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暗殺された浜口雄幸は民間右翼と軍人の暴力の犠牲者だった
浜口雄幸が残した記録(「随感録」)には次のように書かれている。 「駅長室の長椅子に仰臥せしめられた自分は、始めは変を聞いて驚いて駆け付けた閣僚や、友人や医師や、家族や親戚の顔がありありと目に入…
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浜口雄幸暗殺 銃弾は腸内を突き抜けて臀部で止まった
原敬暗殺から9年後の昭和5(1930)年11月14日の朝、やはり同じ東京駅構内で浜口雄幸首相がテロリストの銃弾に倒れた。現役の首相暗殺という行為は、昭和の進む道を予見させることにもなった。近代日本は…
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3人の「平民首相」の暗殺によって暴力の超国家主義を形成
原敬が暗殺されたという事実は、近代日本の歴史がある歪みを伴っていることを裏づけている。首相がテロの対象にされるのは、暴力が公然と政治の方向を決めるということだ。このテロの対象になった首相が政党政治家…
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満州国に原敬暗殺犯・中岡の痕跡を発見 戦後の消息は不明
原敬暗殺の影響力は極めて大きかった。にもかかわらず、その背景などは歴史上ではかなり不透明である。犯人の中岡艮一が恩赦での釈放後にどう生きたかなどは曖昧にされている。それでも釈放後は満洲国軍に関わる日…
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11月4日-原暗殺決行日の謎 計算し尽くしたかのような思惑
中岡艮一は無期懲役の判決を受け、小菅や宮城の刑務所で服役している。しかし大正から昭和にかけて、都合3回の恩赦があった。第1回は大正13(1924)年1月である。皇太子の結婚による恩赦であった。第2回…
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中岡と橋本栄五郎 大物の存在を隠したシナリオ通りの裁判
さてこれまで中岡艮一の背景や「芝公園13号地」に住む東海散士(本名は柴四朗)について語ってきた。これらを含んで中岡の裁判を見てみよう。裁判は大正11年2月13日から6月12日までの間、9回にわたって…
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政治小説家と大陸浪人 犯人・中岡を取り巻く黒い人間関係
原敬暗殺の犯人・中岡艮一の法廷で、中岡を知る大塚駅の駅員や上役(教唆の疑いが持たれ逮捕された助役の橋本栄五郎ら)が証人に立った。その中でやはり転轍手で年齢が同じだった染谷は中岡から、原を倒すから仲間…
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「金はなんとでも」暗殺犯・中岡の言動は何を物語るのか?
この証言は、長文連の著作に書かれているのだが、出典は元老西園寺公望の秘書でもあった原田熊雄文書に記載されているのだという。近衛のところには、いわゆる右翼陣営の人物が出入りしていたといわれる。それは父…
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近衛文麿は原敬暗殺計画を五百木から事前に聞かされていた
原内閣の外交政策は、確かに軍部が進める露骨な帝国主義的政策とは一線を画していた。シベリア出兵に原はもともと反対で、首相になるや前任の寺内正毅内閣の方針を変えた。まず増兵せずを決め、そして撤兵へと政策…
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原敬暗殺事件の黒幕か…見え隠れする「大陸浪人」の存在
原敬暗殺が19歳の青年・中岡艮一によって行われたのは間違いないが、中岡の背景には何らかの勢力が動いていると当時も囁かれていた。現在まで、このことを詳細に論じた書はほとんどない。それには重要な裁判資料…
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原首相暗殺の背後にちらつく「右翼」の影…伏せられた事実
この裁判は事件からほぼ3カ月後に始まったが、実は裁判が始まる前にさまざまな動きがあり、そこには伏せられている事実がいくつもあった。大正11年2月13日から4カ月の間に9回しか開かれなかった法廷は、予…
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原敬を殺した犯人の難解な斬奸状 本当は誰が書いたのか?
原首相を暗殺したのは中岡艮一、19歳の青年であった。国鉄の大塚駅の転轍手である。襲撃は中岡一人で、単独犯だとされている。中岡の取り調べに当たったのは、東京地方裁判所の予審判事だった山崎佐である。東京…
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原敬は自分の日記が近代史の資料になることを自覚していた
原の暗殺は要人たちにすぐに知らされた。宮中にも伝えられた。この日(11月4日)の午後9時半に内閣書記官長から一般にも公表された。「4日午後7時25分、原総理大臣東京駅にて暗殺さる。致命傷は右肺部を突…
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暗殺された原敬 顔面はみるみる蒼白となり口元がけいれん
原敬首相が暗殺された事件は、大正時代の最も不幸な出来事であった。しかもこの事件を調べていくと、いくつもの不透明な事実に出合う。実際に現在もこの不透明さは解明されているとは言いがたく、原暗殺の背景には…
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大正天皇は他人の言葉も理解できないほど体調が悪化した
皇太子がヨーロッパ訪問を終え、日本に戻ってきたのは、大正10(1921)年9月3日であった。ほぼ半年に及ぶ視察旅行であった。皇太子の乗った「香取」が横浜に着く前に、原首相は水雷艇に乗って、このお召し…
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58年後に会見で明かされた 皇太子とジョージ5世との懇談
イギリスでの皇太子は、国を挙げての歓迎に船中で学んだマナーで堂々と答礼を返した。供奉団の一行は胸をなでおろしたと各人の外遊記には書かれている。バッキンガムでの歓迎晩餐会では、ジョージ5世が「殿下は我…
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皇太子がイギリスから最大級の歓迎を受けた「2つの理由」
皇太子に随行する供奉団は、珍田捨巳を中心に皇太子教育のカリキュラムを作った。そのカリキュラムに沿って、皇太子を国際社会に初めて顔を出すのに恥ずかしくない青年君主に育てた。原は、イギリスの君主制を学ん…
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皇太子の外遊計画をめぐって出てきた「宮中某重大事件」
皇太子の外遊計画は結果的には大正天皇、皇后、山県らの元老、原首相、宮内官僚の牧野伸顕、それに外務省をはじめとする官僚たちも賛成を公言した。こうして計画は、外務省と宮内省、そして海軍省が中心になって練…
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原首相が説得役に 貞明皇后に皇太子の外遊の必要性を説く
原首相の時代は、国の内外でさまざまな問題に出合っている。あえて国内問題で言えば、天皇家の新しい事態に対応しなければならなかった。大正天皇の体調が思わしくなく、陸軍の大演習を閲兵する時も明らかに乗馬に…
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新人の永井柳太郎が「西にレーニン、東に原首相」と批判
大正8(1919)年12月26日に第42議会は開かれた。この議会では大正天皇の病状が悪化しているとの理由で、開院式には天皇の出席はなかった。そのため勅語は原敬が代読している。原は開院式の後で山県と会…