保阪正康 日本史縦横無尽
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ヤルタ会談でソ連はルーズベルトの意を受け日本攻撃を決定
ソ連を仲介としてアメリカとの和平工作を進めるというのは、日本にとって錯誤の上に錯誤を重ねるようなものであった。駐日大使のマリクは広田との第1回の会談(6月3日、箱根の強羅ホテル)で、広田から新たに友…
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ソ連はポツダム会談に忙殺され日本政府をあしらい続けた
ソ連を通じての和平交渉は、奇妙な挨拶で始まった。広田弘毅は、ソ連がドイツを降伏させたことに敬意を表するところから始めた。その上でソ連とともに近い距離で居たいと申し出た。これに対して駐日ソ連大使のマリ…
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3つの和平工作にあえて「ソ連ルート」が加えられたが…
沖縄戦の終結によって、戦争を止めなければ大変な状況になっているとの認識が政治指導者や軍人の中にも広がっていた。その一方で、いやまだ本土決戦がある、国民が一丸となって戦い、本土決戦でアメリカ側に多大な…
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作家・伊藤整も信じて騙された大本営のウソ発表のからくり
沖縄戦について、国民はどのような感想を持っていたのだろうか。大本営発表は、この間都合6回にわたって行われたが、この段階ではもう隠しようがないため、状況が良くないことはある程度伝えられた。6回目の発表…
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沖縄の高齢者たちは今もクルマや飛行機の音に怯えている
沖縄戦は空と海、そして地上の戦いであったのだが、地上戦は県民を交えての総力戦になった。第32軍は確かによく戦った。アメリカ軍が南下するのに2カ月間をかけさせている。むろんその陰には県民たちの戦い、そ…
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連絡会議の出席者で息子が戦死したのは伊藤整一だけだった
沖縄戦で戦艦大和があっけなく沈んだ時に、第二艦隊長官の伊藤整一について、「ある視点」からの史実を語っておきたい。この史実は戦争を「歴史」として見る時にはさほど重要視されるわけではない。しかし「人間の…
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4月6日の特攻作戦 1日で341人もの若い隊員が討ち死にした
沖縄戦は空、陸、海の三方から挑んだ、いわば日本軍にとって最終的な戦いであった。これまで大和を軸にした第二艦隊の沖縄特攻について触れてきた。空からの援護もない状況であったが、沖縄戦では日本本土から特攻…
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司令官の弱気を避けるためだった「大和特攻作戦」の愚挙
昭和天皇がこの作戦(大和特攻)を敗戦を意識させるものとしたのは正しい理解だった。第二艦隊を軸にして進めた沖縄特攻作戦の戦略のなさには、日本海軍の致命的な失敗であったという見方があった。 その…
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天皇は大和の出撃を「馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と語った
天皇の御下問(「大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」)に対して、海軍側の結論は次のような内容であったらしい。これは森本忠夫の「特攻」からの引用になるのだが、海軍省人事局長の三戸壽少将と軍令部作戦部長の…
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日本の無能な戦争指導者の追い詰められ自暴自棄を生んだ
沖縄戦は空、陸、海とすべての軍事力をつぎ込んでの戦いとなった。言ってみれば日本にとっての最後の戦いの様相を帯びていた。4月1日に陸海軍の軍令の責任者の間で、昭和20年前半期の申し合わせとして、「全機…
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武器はスコップ…沖縄は意味のない時間稼ぎに利用された
沖縄戦はいわば本土決戦の第一幕というべきであった。硫黄島も確かに本土決戦というべきであったが、こちらは住民がおらず、戦闘員と戦闘員の衝突であった。住民を巻き込んでの軍事衝突という意味では、まさにこの…
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4月1日、米軍は1000隻近い艦船で沖縄に上陸を開始した
日本本土を目指すアメリカ軍は沖縄を一気に制圧して、その航空基地から日常的に本土爆撃を行おうとしていた。沖縄本島に上陸を開始したのは4月1日であった。この上陸部隊は千数百という上陸用船艇で、沖縄本島の…
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決戦と持久、航空優先と地上優先の対立を大本営は見逃した
硫黄島の守備隊が壊滅状態になってすぐに、アメリカ軍は沖縄への上陸作戦に入った。まさに休む間もなくという感じである。比島沖海戦以後の日本軍は、実際にはもう戦う戦力はなかった。いわばアメリカ軍のなすがま…
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戦死を前にしてルーズベルトに手紙を書いた市丸利之助少将
硫黄島の守備隊は、最終的には3月17日に大本営に玉砕する旨の電報を送り攻撃を終える意思を示した。しかし島内に散っていた守備隊の各部隊はほとんどがアメリカ軍の攻撃によって全滅に近い状態であった。3月1…
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硫黄島では栗林忠道の指揮でゲリラ戦が決行されるも玉砕
太平洋戦争の3年8カ月を5段階に分けて、第4期の「解体」の期間は絶望的な状況といってもよかった。勝利の可能性は全くなく、何のために戦っているのかという意味さえ不明な状況になった。軍事指導者たちはただ…
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美濃部は「一億総特攻の空々しさを国民は知らぬ」と記した
美濃部のノートには、特攻作戦をすすめた1航艦司令部の大西瀧治郎や参謀たちが、レイテ作戦の失敗のあとに司令部をクラーク基地から台湾に移したことに激怒の言葉が書かれている。それが学徒兵や少年飛行兵を特攻…
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突入したのは訓練もろくに受けない学徒と少年飛行兵だった
木更津での飛行部隊での指揮官を集めた会議で、特攻作戦に異を唱えた芙蓉部隊の指揮官・美濃部正は、軍法会議にかけられることはなかった。むしろ1航艦の司令長官の大西瀧治郎から、一晩語り明かそうと彼の部屋に…
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死刑覚悟で「特攻作戦だけでは勝てない」と意見した指揮官
特攻作戦に公然と異を唱えた航空部隊の指揮官がいる、と海軍の軍人たちから密かに聞いたことがある。昭和の終わりのころである。本人も戦後は口にしないし、海軍内部でもあまり公にはされていない。私はある軍人の…
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海軍軍令部は大西瀧治郎に神風特攻作戦の責任を押しつけた
海軍の特攻戦略は、ひとたび弦を離れた矢のように一直線に突き進んでいった。大西瀧治郎が矢を放ったことになるが、この戦略は戦術として妥当なのか否かという問いかけが行われる空気はなかった。特攻隊の隊員たち…
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海軍は大西瀧治郎が言い出す前から特攻作戦を進めていた
繰り返しになるが、特別攻撃隊の作戦が現実に行われることになって、逆に日本の戦争政策はある構図を示すことになった。例えば海軍士官は、その性格からいっても技術者としての側面があり、加えて青年期から世界を…