保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「占領下の日本社会」(96)首里城視察から記帳簿の整理まで…昭和天皇が抱き続けた沖縄への思い
昭和天皇が沖縄に対して特別な感情を持っていたことについて、2つのエピソードを語っておこう。 1つは、大正10(1921)年の皇太子時代に、イギリスを中心とするヨーロッパ視察に赴いていた際のこ…
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シリーズ「占領下の日本社会」(95)昭和天皇、果たせなかった「沖縄巡幸」…和歌に込められた痛切な悔恨
戦後、昭和天皇は沖縄に巡幸に赴くことを、自らの信念としていた。昭和20年代の全国巡幸において、結局は訪問がかなわなかった理由についてはさまざまに語られているが、結論は2つに絞られるだろう。 …
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シリーズ「占領下の日本社会」(94)天皇巡幸秘話…太平洋戦争が残した傷痕に衝撃を受けていた昭和天皇
昭和天皇がとにかく全国巡幸にこだわったのは、太平洋戦争が自らの想像を超えて国民に多大な犠牲を背負わせたことへの、負い目があったからではないか。巡幸の細部について当時の新聞記事などで確かめていくと、戦…
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シリーズ「占領下の日本社会」(93)京大天皇事件の深層…GHQや政府による巧妙な「テストケース」となった巡幸
天皇の車が構内に入ってきた時、プラカードを掲げた学生たちが車を取り囲む形になった。混乱の始まりである。その衝突の細部を詳述するわけではないが、この混乱は巡幸の中でも例外的な意味を持っていた。いわば、…
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シリーズ「占領下の日本社会」(92)京都大学への天皇巡幸、「神様だったあなた」に対する学生たちの「願」
占領後期の天皇巡幸は、前期とは全く異なった空気の中で進んだ。その事実を改めて整理しておこう。昭和26(1951)年11月12日から14日までの京都府視察である。 この巡幸のコースには京都大学…
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シリーズ「占領下の日本社会」(91)占領政策の転換と「巡幸」の変容…「人間天皇」から「西側陣営の手駒」へ
天皇の全国巡幸もまた戦後史の政治的儀式に変質していった。それも占領前期が言わば「天皇の脱神格化」「人間天皇」への道筋だったとすれば、占領後期では、天皇は東西冷戦下の西側陣営に日本を引き留める「有力な…
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シリーズ「占領下の日本社会」(90)昭和24年夏の「黒い霧」…下山・三鷹・松川という国鉄三大事件が変えた時代
下山事件、三鷹事件、松川事件はいずれも昭和24(1949)年の7月と8月に起こっている。これらは明らかに人為的事件であり、背後に何らかの思惑が働いていたことは疑いようがない。下山事件は、国鉄総裁の下…
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シリーズ「占領下の日本社会」(89)冷戦構造が変えた日本の占領政策 GHQの主導権はGSからG2へ
占領後期の日本社会は今にして思えば、そこにはいくつもの変化があった。前回にも触れたが、昭和24(1949)年はいわば「黒い霧」と呼ばれるいささか不透明な事件が相次いで起こっている。大体が国鉄がらみで…
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シリーズ「占領下の日本社会」(88)昭和24年1月の天皇・マッカーサー会見が占領政策の分岐点になった
昭和23(1948)年の1年間、天皇巡幸は休止状態になった。昭和23年は「微妙な年になるから」というので、天皇が国民の前に顔を出すのは制限したということもいえるだろうか。同時にこの休止期間は、アメリ…
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シリーズ「占領下の日本社会」(87)中断された「天皇巡幸」…GHQが恐れた日本国民の反応
GHQ内部の改革派将校らが予期した「不祥事」は、現実には起こらなかった。天皇に悪罵を投げつける不満分子も存在するのではないかと、彼らは予想していたが、そうした動きも皆無だった。日本側では、戦前・戦時…
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シリーズ「占領下の日本社会」(86)戦後の民主改革路線は昭和天皇とマッカーサーの合作と言えよう
昭和天皇も国民も、「天皇巡幸」という儀式を通して、いわば、それぞれ新たな社会通念を確認することになった。国民の側からは、天皇は神権化した存在ではなく、人間天皇として国家の一機関を構成しているという了…
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シリーズ「占領下の日本社会」(85)「もう戦争の時代は終わったのだ」――昭和天皇の「神奈川巡幸」を検証する
天皇が涙をこらえているのは、随行の者にはすぐに分かった。サイパンやグアムなどからの一般の家族が、いかなる運命を背負わされたか、天皇はよく知っていたからだ。 さらに南方から引き揚げてきた兵士の…
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シリーズ「占領下の日本社会」(84)「戦争は怖かった?」天皇が涙をこらえた巡幸の記憶
昭和天皇が、試験的に行った神奈川巡幸で、最も大きな収穫を得たのは、庶民との対話の息遣いを知ったということだった。それまで天皇は庶民と対話をしたことはなかった。昭和20年の終戦までは、侍従や侍従武官、…
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シリーズ「占領下の日本社会」(83)庶民との会話で「軍事」から解き放たれた人間天皇の誕生
昭和天皇が国民の前に姿を現し、自らの胸中を率直に示して戦争への反省を表明したことは、2つの勢力に異なった反応を示した。 一つはGHQ(連合国軍総司令部)内部の「ニューディーラー」たちだった。…
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シリーズ「占領下の日本社会」(82)政治家たちの「保守本流」の意識と重なった昭和天皇の「全国巡幸」
「保守本流」という言葉は、戦後の占領期政治を担った吉田茂に端を発すると解釈されるのが一般的だ。むろんこれは当たっているが、その真の起点は昭和21(1946)年1月の「人間宣言」から始まっているのではな…
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シリーズ「占領下の日本社会」(81)昭和天皇「松上雪」の御製が示した戦後「保守本流」の潮流
この人間宣言を発せられた年(昭和21年)の歌会始の御題は、「松上雪」であった。この御題に対して、昭和天皇は次のような歌を詠んでいる。 「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人も…
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シリーズ「占領下の日本社会」(80)昭和天皇が「詔書」で「人間宣言」以上に言いたかったこととは
この宣言(「新日本建設に関する詔書」)は、前半と後半とに分かれている。前半は「五箇条の御誓文」についての説明であり、今なおこの思いをきちんと受け止めて、「独り我国のみならず全人類の為に、耀かしき前途…
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シリーズ「占領下の日本社会」(79)軍事主導体制に抑制を効かせた「五箇条の御誓文」はなぜ変質したのか
この「五箇条の御誓文」は、以下のような枠組みをもって語られている。極めて貴重な意味を持っていることがうかがえる。ここに五箇条を記しておこう(原文は片仮名だが平仮名で引用する)。 1、広く会議を…
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シリーズ「占領下の日本社会」(78)「人間宣言」の舞台裏 昭和天皇がこだわった「五箇条の御誓文」
天皇の人間宣言は、GHQ主導であったにせよ、日本側の政治指導者にも異議はなかった。神権説に執着した軍事指導者たちは、天皇を神とあがめることで、自分たちの戦争指導もより権威づけされると信じたからであっ…
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シリーズ「占領下の日本社会」(77)GHQ内部での対立、反共と軍事主義へと変容する戦後民主主義
「真相はこうだ」は好評を博したため、「真相箱」とタイトルを変えて、昭和21年12月まで続けられた。しかし「真相箱」とタイトルを変えてからは、真実の探究よりも政治的思惑が前面に出るようになった。東京裁判…
