保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(41)原子爆弾委員会が黙殺した科学者たちの報告
広島への原子爆弾投下について、このシリーズでは2つのことを強調しておきたい。それは次の点である。 (1)軍事指導部は、これがウラン爆弾という新型の大量殺人兵器であることを認めまいと必死になった…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(40)福島県石川町で中学生時代に勤労動員された男性の証言
広島への原爆投下後も、日本のウラン爆弾のウラン鉱石探しは続いていた。爆弾製造の最初の段階ともいうべきこの作業について、触れておかなければならない。「ニ号研究」にせよ「F号研究」にせよ、前提になるのは…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(39)自分たちの研究姿勢は変えない──荒勝文策研究室の抵抗
では京都帝大の荒勝文策研究室はどのような状態になったのか。 海軍艦政本部は当初は「研究だけでいい、製造開発などまでは必要でない」との態度であった。しかしサイパン陥落の要因にもなった「あ号作戦…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(38)「二号研究」はB29の爆撃とともに燃え尽きた
竹内柾らの分離班チームが分離筒を試行錯誤の末に作り上げたのは、昭和20年の初めのことであった。それは高さが5メートルにも及び、幅は50センチを超えていた。この分離筒に六フッ化ウランを入れて濃縮ウラン…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(37)二号研究に見る戦争と科学者の宿命的な関係
その仁科芳雄を師と仰ぐ竹内柾は、「ニ号研究」では分離法研究の一員であった。竹内の証言によれば、仁科からウラン爆弾の研究をしてみろと言われ、班に組み込まれた。といっても兵器のことなど知らない、ただの原…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(36)ソ連、ドイツ、日本-ウラン爆弾開発の分水嶺
「ニ号研究」や「F号研究」に加わった科学者や研究者に話を聞いていて、私(保阪)は、戦争と出会った彼らの苦衷が実によく理解できた。自らの研究テーマが、戦争では最大の効果を発揮する殺人兵器に転じるというの…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(35)科学者はウラン爆弾製造にどのような責任を感じていたのか
ウラン爆弾製造のプロセスについて、その概略を紹介してきたのだが、ここで科学者の本音はどこにあったのか、具体的に物理学者の証言や本音を語っておきたい。私はこの取材時(つまりウラン爆弾製造に協力体制を余…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(34)日本原爆研究の限界と米国の国力
昭和50年代から60年代にかけて、私は原子物理学者や陸海軍の技術将校に会い続けた。日本がウラン爆弾を持たなかったことは、それはそれで喜ばしいと思ってのことであった。多くの物理学者もその点を肯定した。…
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シリ-ズ「第2次世界大戦と原爆」(33)二号研究の真実 仁科研究室が決めた熱拡散方式
ウラン爆弾の製造プロセスをなぞってみると、一つ一つの段階がいかに大事業かがはっきりとしてくる。第1段階のウラン鉱石の確保が思うように進まず、「とにかくウラン鉱石を10キロ集めろ」と叫んだ軍事指導者は…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(32)日本の科学者のプライドをかけたウラン爆弾研究
ウラン爆弾を開発製造しようとした当時の考え方とその製造開発のプロセスを、科学者や技術将校に確かめると以下のようになる。もちろんこの方法は、今では全く異なった形でより精緻になっているとされ、わずかの技…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(31)理化学研究所に送り込まれてきた8人の技術将校への反発
戦争という時代に巡り合わせた原子物理学者は、秀才揃いの上に家庭環境が恵まれていて、いささか狂熱的な政治思想や社会思想とは距離を置いていた。研究室で学問に打ち込んでいることが最高の幸せというタイプが多…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(30)戦時中に理化学研究所で働いていた研究員たちの横顔
日本のウラン爆弾の研究、製造・開発の動きの周辺、さらにはソ連の情報工作員のマンハッタン計画スパイ事件などについて、これまで触れてきた。そこで今回からは、理化学研究所の仁科芳雄研究室の研究員、あるいは…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(29)戦争末期の日本に続出した自称発明家たち
Yは、「この研究に予算をつけろ」とわめき散らす男を、説得して帰すのが面倒だったとも話した。この男は海軍にも出かけて、山本五十六に面会を申し込んで、水から石油を作る研究を説いたという説もあるほどだった…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(28)ウラン爆弾は東條英機の私的計画だった
陸軍内部で一貫して兵器開発の研究やその技術開発を目指していたある軍人(仮にYとしておこう)が語った兵器論が、私の印象に残っている。Yは、直接にはウラン爆弾の研究、開発、製造の計画には関わっていない。…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(27)狂気の時代、軍の暴走に加担しなかった科学者たち
トリウム爆弾については、ウラン爆弾に取り組む科学者や陸海軍の技術将校がどのように見ていたか、いずれにせよ紹介する必要がある。ウラン爆弾のウラン鉱石探しをもう少し語っておく必要がある。というのは昭和1…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(26)「ウラン探し」の裏で極秘に進められた「ト号研究」
兵器行政本部の技術将校、山本洋一は、理化学研究所の飯盛里安とともに、ウラン10キロを探せ、との命令を軍事指導者から受けた。昭和19(1944)年6月のことであった。実際、2人は軍の管轄下にある資料を…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(25)暗殺の危機にも直面した東條英機はウラン探しを加速させた
陸軍の兵器行政本部の第八技術研究所の技術将校、山本洋一と理化学研究所の飯盛里安研究室は、共同してウラン鉱石を探すことになった。昭和19(1944)年7月からのことであった。ウラン鉱石は、このほかのル…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(24)皇族も動いた、極秘ウラン探査と科学者たち
日本のウラン爆弾製造の内幕を見ていくとき、そこにはいかにも日本らしいカラクリが見えてくることが理解できる。カラクリとは何か。さしあたり3点を指摘しておこう。それはきちんとしたシステムの構築ができない…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(23)原爆製造へと動いていく理化学研究所の科学者たち
太平洋戦争の期間(3年8カ月になるのだが)に、日本のウラン爆弾の研究、製造、開発はいかなる状態にあったのか、それを歴史的に俯瞰しているのが、このタイトルの意味するところである。昭和50年代の後半から…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(22)新型爆弾製造により戦局不利の打開を狙った軍事指導者たち
日本側がナチスドイツにウラン鉱石2トンを譲り渡して欲しいと申し入れた事実は、戦況の上ではサイパン陥落の数カ月前であった。こうした事実を見ると、枢軸体制側の国家における製造開発の動きは、軍事主導での新…
