保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(36)ソ連、ドイツ、日本-ウラン爆弾開発の分水嶺
「ニ号研究」や「F号研究」に加わった科学者や研究者に話を聞いていて、私(保阪)は、戦争と出会った彼らの苦衷が実によく理解できた。自らの研究テーマが、戦争では最大の効果を発揮する殺人兵器に転じるというの…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(35)科学者はウラン爆弾製造にどのような責任を感じていたのか
ウラン爆弾製造のプロセスについて、その概略を紹介してきたのだが、ここで科学者の本音はどこにあったのか、具体的に物理学者の証言や本音を語っておきたい。私はこの取材時(つまりウラン爆弾製造に協力体制を余…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(34)日本原爆研究の限界と米国の国力
昭和50年代から60年代にかけて、私は原子物理学者や陸海軍の技術将校に会い続けた。日本がウラン爆弾を持たなかったことは、それはそれで喜ばしいと思ってのことであった。多くの物理学者もその点を肯定した。…
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シリ-ズ「第2次世界大戦と原爆」(33)二号研究の真実 仁科研究室が決めた熱拡散方式
ウラン爆弾の製造プロセスをなぞってみると、一つ一つの段階がいかに大事業かがはっきりとしてくる。第1段階のウラン鉱石の確保が思うように進まず、「とにかくウラン鉱石を10キロ集めろ」と叫んだ軍事指導者は…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(32)日本の科学者のプライドをかけたウラン爆弾研究
ウラン爆弾を開発製造しようとした当時の考え方とその製造開発のプロセスを、科学者や技術将校に確かめると以下のようになる。もちろんこの方法は、今では全く異なった形でより精緻になっているとされ、わずかの技…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(31)理化学研究所に送り込まれてきた8人の技術将校への反発
戦争という時代に巡り合わせた原子物理学者は、秀才揃いの上に家庭環境が恵まれていて、いささか狂熱的な政治思想や社会思想とは距離を置いていた。研究室で学問に打ち込んでいることが最高の幸せというタイプが多…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(30)戦時中に理化学研究所で働いていた研究員たちの横顔
日本のウラン爆弾の研究、製造・開発の動きの周辺、さらにはソ連の情報工作員のマンハッタン計画スパイ事件などについて、これまで触れてきた。そこで今回からは、理化学研究所の仁科芳雄研究室の研究員、あるいは…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(29)戦争末期の日本に続出した自称発明家たち
Yは、「この研究に予算をつけろ」とわめき散らす男を、説得して帰すのが面倒だったとも話した。この男は海軍にも出かけて、山本五十六に面会を申し込んで、水から石油を作る研究を説いたという説もあるほどだった…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(28)ウラン爆弾は東條英機の私的計画だった
陸軍内部で一貫して兵器開発の研究やその技術開発を目指していたある軍人(仮にYとしておこう)が語った兵器論が、私の印象に残っている。Yは、直接にはウラン爆弾の研究、開発、製造の計画には関わっていない。…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(27)狂気の時代、軍の暴走に加担しなかった科学者たち
トリウム爆弾については、ウラン爆弾に取り組む科学者や陸海軍の技術将校がどのように見ていたか、いずれにせよ紹介する必要がある。ウラン爆弾のウラン鉱石探しをもう少し語っておく必要がある。というのは昭和1…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(26)「ウラン探し」の裏で極秘に進められた「ト号研究」
兵器行政本部の技術将校、山本洋一は、理化学研究所の飯盛里安とともに、ウラン10キロを探せ、との命令を軍事指導者から受けた。昭和19(1944)年6月のことであった。実際、2人は軍の管轄下にある資料を…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(25)暗殺の危機にも直面した東條英機はウラン探しを加速させた
陸軍の兵器行政本部の第八技術研究所の技術将校、山本洋一と理化学研究所の飯盛里安研究室は、共同してウラン鉱石を探すことになった。昭和19(1944)年7月からのことであった。ウラン鉱石は、このほかのル…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(24)皇族も動いた、極秘ウラン探査と科学者たち
日本のウラン爆弾製造の内幕を見ていくとき、そこにはいかにも日本らしいカラクリが見えてくることが理解できる。カラクリとは何か。さしあたり3点を指摘しておこう。それはきちんとしたシステムの構築ができない…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(23)原爆製造へと動いていく理化学研究所の科学者たち
太平洋戦争の期間(3年8カ月になるのだが)に、日本のウラン爆弾の研究、製造、開発はいかなる状態にあったのか、それを歴史的に俯瞰しているのが、このタイトルの意味するところである。昭和50年代の後半から…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(22)新型爆弾製造により戦局不利の打開を狙った軍事指導者たち
日本側がナチスドイツにウラン鉱石2トンを譲り渡して欲しいと申し入れた事実は、戦況の上ではサイパン陥落の数カ月前であった。こうした事実を見ると、枢軸体制側の国家における製造開発の動きは、軍事主導での新…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(21)果たしてヒトラーのドイツはウラン鉱石2トンを日本に送ろうとしたのか
ウラン鉱石を求めて、日本側はドイツに2トンのウランの提供を求めた。この申し出を行ったのは、陸軍航空本部の将校、川島虎之輔大佐である。川島は駐独大使の大島浩から、ドイツ側の「何に使うのか」との問い合わ…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(20)サイパン陥落で加速した日本のウラン爆弾開発
繰り返すことになるが、日本のウラン爆弾の研究、製造、開発は、昭和19(1944)年6月のサイパン陥落までは研究姿勢も曖昧であった。陸軍に協力要請された科学者は、本心では研究主体でありながらも、表向き…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(19)「ウラン鉱を何が何でも探せ」東條英機の極秘命令
ウラン爆弾を製造するのに、もっとも隘路になるのは、ウラン鉱を探して確保することであった。この天然ウランからウラン235を取り出すのである。ウラン鉱にはウラン235、234、238などがあるのだが、こ…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(18)陸軍と海軍の「原爆研究」…二号研究とF号研究の乖離
陸軍と海軍は、ウラン爆弾の可能性について、その基本的立場も、委託する核物理学の研究機関も異なっていた。アメリカのマンハッタン計画と比べると、雲泥の差というより、天と地ほどの開きがあった。この差異は日…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(17)安田武雄と鈴木辰三郎…陸軍が追い求めた原爆構想
陸軍航空本部の技術将校には、徴用されて軍人となった者も多い。大学院で学んでいたり、すでに研究所に勤務していたりした研究者や技術者も軍から召集され、軍事機構の技術部門に籍を置くケースも珍しくなかった。…