保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「占領下の日本社会」(8)敗戦直後には戦争継続を涙ながらに求める人たちがいた
昭和天皇の敗戦を告げる玉音放送は、20代の青年層にとって心理的な衝撃が大き過ぎた。 この世代の男性は兵士であれ、産業戦士であれ、いずれも戦争の渦中に身を置いていた世代でもあった。それぞれの持…
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シリーズ「占領下の日本社会」(7)疎開から戻った子どもたちを待っていた「戦後」
少国民世代の敗戦体験時のエピソードを続けよう。 私が市民講座などで講師を務めているときに、受講者から聞かされた話はいずれも、戦争の犠牲は最も弱い層に集約されているとの感慨を否めないものだった…
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シリーズ「占領下の日本社会」(6)特攻に行かず、生き残った学徒兵の怒り
「回天」のその乗員だった学徒兵を、Aさんとしておこう。 Aさんは日々、敵艦に体当たりする訓練を続けていた。8月15日の玉音放送を聞いて、「死ななくて済む」と思うとうれしかったでしょう、そう尋ね…
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シリーズ「占領下の日本社会」(5)終戦の日、若者たちは何を思ったのか
敗戦を受け入れた日、すなわち昭和20年8月15日、人々の感情はどのようなものだったのだろうか。むろん公式の統計があるわけではない。この頃にアンケートや世論調査を行う余裕などなかったし、この日の感情と…
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シリーズ「占領下の日本社会」(4)戦後、日本の家庭にやってきた民主主義への戸惑い
子供心に「戦争が終わったのだなあ」と感じた光景について、小学校に入ったばかりの子供の目で感じた記憶を、もう少し語っておきたい。 父と母がある時期に激しい夫婦喧嘩をしたことを覚えている。私が小…
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シリーズ「占領下の日本社会」(3)敗戦の街に現れた白いワンピースの女
戦後すぐの風景になるのだが、私が初めて「パンパン」と言われた女性を見た時の衝撃は今も忘れない。私の育った北海道・道南の町には飛行場があったため進駐軍もやってきて、日本軍の軍事施設の解体や日本軍の将兵…
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シリーズ「占領下の日本社会」(2)占領直後、ツルハシを片手に校長は奉安殿を壊していた
占領期の日本社会を語るにあたって、はじめに私自身の体験や記憶を語っておこうと思う。幼い目で大人たちを見つめていたので、戦争が終わるということはこういうことなのか、という子供心の理解にもなるだろう。 …
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シリーズ「占領下の日本社会」(1)日本人を変化させる現代史の始まり
前回まで、ウラン爆弾にまつわるエピソードを紹介してきた。昭和20(1945)年8月6日と9日に、この新型爆弾を投下され、大日本帝国はようやく戦争終結に方向転換することになった。頑迷な軍人たちの中には…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(53)軍人の片棒を担がなかった日本の科学者たちの良心
原子爆弾の製造、開発、そして投下に至る過程の中に垣間見えたエピソードを、いくつか紹介してきた。このようなエピソードを分析していくと、実際に戦時下で怖い存在とは、以下のようになるのではないか。あえて序…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(52)大戦終了後、どれほどの「頭脳」が他国に流出していったのか
日本のウラン爆弾の製造計画を確認していたアメリカの科学者の中には、個々の日本人研究者の能力について極めて精緻に分析した報告書を作り上げた者もいた。その過程で、「あなたはアメリカに亡命して原子核エネル…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(51)戦後、原爆製造に関わった科学者たちに芽生えた新たな恐怖
昭和20(1945)年8月15日を迎えて、最も喜んだのは科学者たちかもしれない。本土決戦をいとわない軍人たちからの哀願というべき、「ウラン爆弾はいつ作れるのか」「いや早く作れ」という命令や恫喝からも…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(50)原発開発計画に加わった科学者は戦後、熱心な反核運動支持者になった
敗戦を認めまいとする陸海軍の本土決戦派は、ウラン爆弾によって戦況を一転させることを考えていた。それゆえに、ウラン爆弾がどれほどの時間や国力をかけて製造が可能なのか、全く見通しを持っていなかった。ただ…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(49)敗戦を受け入れられず、米国への原爆投下を夢想した軍部
陸軍の高級軍人が言い出した「原爆特攻」などに見え隠れしているのは、敗戦を受け入れられない、存亡を懸けて本土決戦を行うのだ、それにはどんなことでもやってのける、という本心であった。アメリカのマンハッタ…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(48)秘密工場とロケット特攻、軍部の断末魔
広島、長崎への原爆投下は、結果的には日本に敗戦の現実を教えた。むろん本土決戦に固執する日本の軍部は、こういう兵器を前にしても敗戦を認めず、ひたすら聖戦遂行を口走り、その思いを他の集団にぶつけていた。…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(47)新型爆弾製造の失敗が日本の敗戦を決定づけた
広島に続いて、長崎にも原子爆弾は投下された。8月9日の午前11時過ぎのことである。宮中では御前会議が開かれているときであった。ポツダム宣言を受け入れるべきという政治の側と本土決戦によって活路を開くべ…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(46)政治家と軍人でねじれていた日米の奇妙な構図
マンハッタン計画による原子爆弾の開発、製造という現実は、太平洋戦争におけるアメリカ側の戦い方に原則的な問いかけを提示したこともうかがえる。それは「政治」と「軍事」の関係の本質を問うものである。日本で…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(45)陸軍長官スティムソンにもうかがい知れる罪の意識
ここで原子爆弾を投下した側の政治家たちは、いかなる反応を示したのかについて触れておきたい。というのは日本の軍事指導者が、ウラン爆弾の完成をひたすら科学者に強要するさまを見て、こうした指導者が、人類史…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(44)科学者や女学生に広島市内で活動させた軍部の身勝手さ
放射能を恐れる陸海軍の指導部は、結果的にと言っていいのだが、広島には入っていない。科学者には現地調査の名目のもとに、広島の視察を依頼していながら、自分たちはそれに同行していない。そのことを私に語った…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(43)広島の原爆投下を受け、軍部は原爆開発に拍車をかけた
実は仁科芳雄は、広島から戻ると門弟の科学者に、書簡であるいは口頭で、これはウラン爆弾と思われるが、そうだとすれば「私たちは米英の科学者に敗れたということを意味する」との深刻な内容を伝えている。最終的…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(42)原爆投下後、広島に現地入りした科学者たちの驚き
それどころか陸海軍の首脳陣の集まった原子爆弾委員会の意見は、この被害は本来のウラン爆弾の威力からすれば数分の一程度であると予想したのである。ありていに言えば、こうした見方を前面に押し出すことで、科学…
