保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「占領下の日本社会」(22)米国も拍子抜けするほど日本人は占領を受け入れた
日本人がいかに戦時下の軍事指導者や軍人を憎んでいたかは、それこそ幾つもの例がある。私はこの40年ほど、一般兵士や戦時下に生きた人々の実感を、およそ1000人単位で聞いてきた。つまり、戦争の証言を確か…
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シリーズ「占領下の日本社会」(21)軍神崇拝が一転、罵声に変わった敗戦直後
太平洋戦争の敗戦後の日本社会は、軍人や軍事機構に徹底した憎悪が向けられた。太平洋戦争の3年8カ月、その前から見ていくと日中戦争からの8年、満州事変から数えるとほぼ14年間、日本は戦時の状態に入ってい…
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シリーズ「占領下の日本社会」(20)たった一人で「太平洋戦争前史」を書き上げた青木得三の執念
大東亜戦争調査会は、政府内部に置くことは認められなかったが、事務局長役の青木得三は、民間に組織を移して調査を始めた。私財を投じるような形で、この調査会の役割を守り続けたと言ってもよいだろう。執筆には…
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シリーズ「占領下の日本社会」(19)天皇の戦争責任を巡り幣原内閣で生じた足並みの乱れ
大東亜戦争調査会は太平洋戦争の原因を突き止め、歴史的な役割を果たそうとした。しかし、結局はソ連の横やりで果たせなかった。 戦争の真実が明らかにされると、ソ連にとって都合の悪い史実がいくつかあ…
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シリーズ「占領下の日本社会」(18)大東亜戦争調査会の挫折、戦勝国のエゴイズムによって「真相究明」が消えた
大東亜戦争調査会による「太平洋戦争の真因を政府が徹底調査する」という幣原喜重郎内閣の試みが、途中で挫折したのは極めて残念なことであった。 私は、占領初期のこの試みが中止に追い込まれた原因は、…
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シリーズ「占領下の日本社会」(17)幻に終わった「大東亜戦争調査会」、大蔵官僚に引き継がれた思い
戦犯自主裁判構想案の条文は、全12条から成り立っている。これはやはり、幣原喜重郎内閣の元で設立された大東亜戦争調査会の目的とも確かに重なり合うのである。 そして、この調査会の調査委員について…
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シリーズ「占領下の日本社会」(16)軍人に対する文官の怒りが生んだ「大東亜戦争調査会」
敗戦直後、文官や政治家の中には、軍人や軍事に対して感情的な反発や怒りを抱く人たちが少なくなかった。戦時下で徹底的に抑圧、あるいは弾圧されていたことへの当然の不満である。前回紹介したように、昭和天皇に…
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シリーズ「占領下の日本社会」(15)戦争に終止符を打った時、天皇は何を思っていたのだろうか
敗戦時の個々人の心理状態で忘れてならないのは、昭和天皇の心理である。どういう気持ちであったかを、最側近の侍従であった木下道雄の「側近日誌」をもとに考えてみたい。実際に天皇の心理や思考がどう変化してい…
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シリーズ「占領下の日本社会」(14)戦後初の内閣はなぜ「皇族の内閣」になったのであろうか
戦後初めて内閣を組織したのは、東久邇宮稔彦王である。鈴木貫太郎首相は1945年8月15日の夕刻には辞職したが、その後を誰が引き継ぐかに、天皇や天皇周辺の側近たちは頭を痛めた。内大臣の木戸幸一は天皇の…
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シリーズ「占領下の日本社会」(13)二度と軍事の横暴に振り回されない、それが戦後政党の原点である
議会人は戦時下では、全くの無力であった。軍事が統治権(立法、行政、司法)を支配しただけでなく、この国の文化、伝統、生活環境、さらには国民意識に至るまで、すべてが戦争賛歌のために動員され、そして解体同…
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シリーズ「占領下の日本社会」(12)戦後政党の原点をたどれば、そこには「軍閥政治への怒り」があった
敗戦時の政治家たちが、どのような考え方を持っていたか、そのことをもう少し検証していこう。 西尾末広は、戦前は無産政党所属の議員として活動し、戦後は社会党を中心とする連立内閣(片山哲内閣)で官…
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シリーズ「占領下の日本社会」(11)軍事独裁という危機から日本を救った「敗戦の宰相」
日本の戦争指導には、いわば政治家はほとんどと言っていいほど関与していなかった。つまり議会人は蚊帳の外に置かれていたのである。政治家の回顧録や回想記を読むと、その傍観者ぶりには驚かされる。実際、日本は…
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シリーズ「占領下の日本社会」(10)敗戦後に戦争継続を叫んだ軍人たちの心理
敗戦時、一部の不穏な動きを示す軍人や民間右翼のグループがテロやクーデターの対象にしたのは、鈴木貫太郎や平沼騏一郎など、いわば天皇の側近たちだった。 彼らが敗戦を受け入れたのは、天皇の意思を忠…
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シリーズ「占領下の日本社会」(9)敗戦の朝、鈴木貫太郎を襲った暴徒たちの意外な顛末
敗戦に伴う不穏な動きは、軍人や軍属を中心に幾つかあったが、現実には大掛かりなテロやクーデターにまで発展することはなかった。その理由は、天皇の意思が、ポツダム宣言の受諾を望んでいることが明らかになった…
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シリーズ「占領下の日本社会」(8)敗戦直後には戦争継続を涙ながらに求める人たちがいた
昭和天皇の敗戦を告げる玉音放送は、20代の青年層にとって心理的な衝撃が大き過ぎた。 この世代の男性は兵士であれ、産業戦士であれ、いずれも戦争の渦中に身を置いていた世代でもあった。それぞれの持…
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シリーズ「占領下の日本社会」(7)疎開から戻った子どもたちを待っていた「戦後」
少国民世代の敗戦体験時のエピソードを続けよう。 私が市民講座などで講師を務めているときに、受講者から聞かされた話はいずれも、戦争の犠牲は最も弱い層に集約されているとの感慨を否めないものだった…
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シリーズ「占領下の日本社会」(6)特攻に行かず、生き残った学徒兵の怒り
「回天」のその乗員だった学徒兵を、Aさんとしておこう。 Aさんは日々、敵艦に体当たりする訓練を続けていた。8月15日の玉音放送を聞いて、「死ななくて済む」と思うとうれしかったでしょう、そう尋ね…
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シリーズ「占領下の日本社会」(5)終戦の日、若者たちは何を思ったのか
敗戦を受け入れた日、すなわち昭和20年8月15日、人々の感情はどのようなものだったのだろうか。むろん公式の統計があるわけではない。この頃にアンケートや世論調査を行う余裕などなかったし、この日の感情と…
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シリーズ「占領下の日本社会」(4)戦後、日本の家庭にやってきた民主主義への戸惑い
子供心に「戦争が終わったのだなあ」と感じた光景について、小学校に入ったばかりの子供の目で感じた記憶を、もう少し語っておきたい。 父と母がある時期に激しい夫婦喧嘩をしたことを覚えている。私が小…
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シリーズ「占領下の日本社会」(3)敗戦の街に現れた白いワンピースの女
戦後すぐの風景になるのだが、私が初めて「パンパン」と言われた女性を見た時の衝撃は今も忘れない。私の育った北海道・道南の町には飛行場があったため進駐軍もやってきて、日本軍の軍事施設の解体や日本軍の将兵…
