保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「占領下の日本社会」(105)「売国奴」と呼ばれたエリートたち…「服部機関」とウイロビーの蜜月
前回の続きになるが、旧日本軍に対する反省を一切持たない軍人グループも、実際には少なくなかった。その多くは、戦時下で権力を握って戦争指導を行い、戦後は巧みに戦犯追及の網から逃れたようなグループ、あるい…
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シリーズ「占領下の日本社会」(104)昭和の軍人たちの遺言「日本を亡ぼすものは日本である」
田中隆吉を論じる中で、これまで2人の軍人による次世代への忠告を紹介してきた。山下奉文の「次世代は旧軍を徹底して検証せよ」という遺言、そして大本営情報部の堀栄三の「日本はウサギの耳になれ」という言葉は…
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シリーズ「占領下の日本社会」(103)山下奉文と堀栄三の“遺言”、日本は旧軍と同じような組織を持ってはならない
昭和陸軍はなぜ、あれほど組織としての体裁を失っていったのか。そのことは詳細に点検しなければならない。もし日本がこれからも旧軍と同じような体質の軍事組織を持つことがあれば、この国は根本から崩れ落ちてい…
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シリーズ「占領下の日本社会」(102)東條英機が天皇に対して使っていた「二枚舌」は歴史に残すべき
田中隆吉は陸軍省兵務局長として、憲兵部門の統括者でもあった。すなわち軍内の警察機構を掌握していたために、憲兵が収集する情報はよく把握していたのである。 田中は国内の世論は全てが対米戦争を支持…
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シリーズ「占領下の日本社会」(101)「田中の正義感を、いつか書き残して欲しい」、同期生の老人は涙を浮かべて語った
田中隆吉について、私は旧軍の内実を書くときにも、あまり触れないようにしてきた。その理由は簡単で、私の心中に複雑な思いがあったからだ。 昭和50年代、ある雑誌から言われて、戦後世代から見た「田…
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シリーズ「占領下の日本社会」(100)田中隆吉は「昭和陸軍の裏切り者」なのか 敗戦わずか1カ月後の「正論」
東京裁判で検事側証人に立った田中隆吉(軍人、元陸軍省兵務局長)は、実にさまざまな局面について証言をしている。それだけ組織内の人物たちと、密度の濃い交わりを続けていたということだろう。従ってその証言や…
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シリーズ「占領下の日本社会」(99)検事団が31回もの尋問をした田中隆吉、東條英機への反旗
田中隆吉の略歴は、「敗因を衝く」をたどってみてもわかるが、軍人としては絵に描いたようなエリートとしての道を歩んでいる。「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」によれば、1893(明治26)年に島根県に生ま…
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シリーズ「占領下の日本社会」(98)軍国主義下の花形、「職業軍人」たちが戦後に書き残した告発本を読む
旧軍人の書き残した回想記や回顧録、あるいは自伝の類いを読んでいると、すぐにいくつかのことに気がつく。一口に「軍人」と言っても、その意味はかなり広い。戦争に行ってきた兵士まで軍人に含めれば、その定義は…
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シリーズ「占領下の日本社会」(97)GHQに全ての特権を剥奪された元軍人たちの生きざま
太平洋戦争が敗戦によって終結した後、日本はアメリカを軸とする戦勝国の占領支配を受けた。それは昭和20(1945)年8月から昭和27(1952)年4月まで、期間にして6年8カ月に及ぶ。この期間、日本は…
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シリーズ「占領下の日本社会」(96)首里城視察から記帳簿の整理まで…昭和天皇が抱き続けた沖縄への思い
昭和天皇が沖縄に対して特別な感情を持っていたことについて、2つのエピソードを語っておこう。 1つは、大正10(1921)年の皇太子時代に、イギリスを中心とするヨーロッパ視察に赴いていた際のこ…
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シリーズ「占領下の日本社会」(95)昭和天皇、果たせなかった「沖縄巡幸」…和歌に込められた痛切な悔恨
戦後、昭和天皇は沖縄に巡幸に赴くことを、自らの信念としていた。昭和20年代の全国巡幸において、結局は訪問がかなわなかった理由についてはさまざまに語られているが、結論は2つに絞られるだろう。 …
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シリーズ「占領下の日本社会」(94)天皇巡幸秘話…太平洋戦争が残した傷痕に衝撃を受けていた昭和天皇
昭和天皇がとにかく全国巡幸にこだわったのは、太平洋戦争が自らの想像を超えて国民に多大な犠牲を背負わせたことへの、負い目があったからではないか。巡幸の細部について当時の新聞記事などで確かめていくと、戦…
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シリーズ「占領下の日本社会」(93)京大天皇事件の深層…GHQや政府による巧妙な「テストケース」となった巡幸
天皇の車が構内に入ってきた時、プラカードを掲げた学生たちが車を取り囲む形になった。混乱の始まりである。その衝突の細部を詳述するわけではないが、この混乱は巡幸の中でも例外的な意味を持っていた。いわば、…
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シリーズ「占領下の日本社会」(92)京都大学への天皇巡幸、「神様だったあなた」に対する学生たちの「願」
占領後期の天皇巡幸は、前期とは全く異なった空気の中で進んだ。その事実を改めて整理しておこう。昭和26(1951)年11月12日から14日までの京都府視察である。 この巡幸のコースには京都大学…
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シリーズ「占領下の日本社会」(91)占領政策の転換と「巡幸」の変容…「人間天皇」から「西側陣営の手駒」へ
天皇の全国巡幸もまた戦後史の政治的儀式に変質していった。それも占領前期が言わば「天皇の脱神格化」「人間天皇」への道筋だったとすれば、占領後期では、天皇は東西冷戦下の西側陣営に日本を引き留める「有力な…
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シリーズ「占領下の日本社会」(90)昭和24年夏の「黒い霧」…下山・三鷹・松川という国鉄三大事件が変えた時代
下山事件、三鷹事件、松川事件はいずれも昭和24(1949)年の7月と8月に起こっている。これらは明らかに人為的事件であり、背後に何らかの思惑が働いていたことは疑いようがない。下山事件は、国鉄総裁の下…
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シリーズ「占領下の日本社会」(89)冷戦構造が変えた日本の占領政策 GHQの主導権はGSからG2へ
占領後期の日本社会は今にして思えば、そこにはいくつもの変化があった。前回にも触れたが、昭和24(1949)年はいわば「黒い霧」と呼ばれるいささか不透明な事件が相次いで起こっている。大体が国鉄がらみで…
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シリーズ「占領下の日本社会」(88)昭和24年1月の天皇・マッカーサー会見が占領政策の分岐点になった
昭和23(1948)年の1年間、天皇巡幸は休止状態になった。昭和23年は「微妙な年になるから」というので、天皇が国民の前に顔を出すのは制限したということもいえるだろうか。同時にこの休止期間は、アメリ…
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シリーズ「占領下の日本社会」(87)中断された「天皇巡幸」…GHQが恐れた日本国民の反応
GHQ内部の改革派将校らが予期した「不祥事」は、現実には起こらなかった。天皇に悪罵を投げつける不満分子も存在するのではないかと、彼らは予想していたが、そうした動きも皆無だった。日本側では、戦前・戦時…
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シリーズ「占領下の日本社会」(86)戦後の民主改革路線は昭和天皇とマッカーサーの合作と言えよう
昭和天皇も国民も、「天皇巡幸」という儀式を通して、いわば、それぞれ新たな社会通念を確認することになった。国民の側からは、天皇は神権化した存在ではなく、人間天皇として国家の一機関を構成しているという了…
