保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「占領下の日本社会」(37)戦勝国は日本が提案した「戦犯自主裁判」をなぜ嫌ったのか
この戦犯自主裁判について、補足して語っておかなければならないことがある。 敗戦前、アメリカ、イギリス、中国の3カ国の指導者名でポツダム宣言が発せられ、日本にこれを受け止めるよう迫った。日本は…
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シリーズ「占領下の日本社会」(36)父・大久保利通の暗殺に遭遇した牧野伸顕は、なぜ戦犯法廷に怯んだのか
天皇側近の牧野伸顕に最も近い立場の閣僚といえば、むろん吉田茂である。吉田は牧野の女婿であり、日常的にも牧野とは連絡を取り合う同志でもあった。その吉田が、幣原喜重郎内閣のもとで浮上した、このような「勅…
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シリーズ「占領下の日本社会」(35)戦後自主裁判「勅令案」を発見し、私は興奮したのだった
もし戦犯自主裁判の「勅令案」が実行に移されたならば、日本の戦後社会では極めて率直な戦犯追及の動きが加速したであろう。この想定を試みると、わかることがある。弾劾、糾弾、査問、さらには私的制裁などが行わ…
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シリーズ「占領下の日本社会」(34)幻の「勅令案」─もし国民が戦争指導者を告発していたら
仮に、「戦犯自主裁判」を日本側で開いたとするなら、開戦詔書に署名した東條英機内閣の閣僚は、全員がその責任を問われることになる。繰り返しになるが、彼らは「明治天皇の勅諭に背きて軍閥政治を招来し」、そし…
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シリーズ「占領下の日本社会」(33)もし日本が「自主戦犯裁判」を開いていたならば、東條英機は叛逆罪になっていただろう
太平洋戦争の開戦前、実際に戦争が始まった後に講和はどのような段階を経て進めるのかという点について、日本の軍事指導者は全くと言っていいほど考えていなかった。それについては前回述べたとおりだが、本シリー…
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シリーズ「占領下の日本社会」(32)吉田茂の申し入れと木戸幸一の保身、幻に終わった近衛文麿のスイス派遣工作
吉田茂が外交官の勘を働かせ、近衛文麿を戦時下のスイス・ジュネーブに単身で長期滞在させ、アメリカ、イギリスなどの有力者が近づいてくるのを待つという案は、明らかに伊藤博文が金子堅太郎をアメリカに送って政…
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シリーズ「占領下の日本社会」(31)日露戦争時にアメリカを味方につけた伊藤博文と金子堅太郎
戦争終結に関する腹案に接して思うことは、日露戦争時の金子堅太郎のような人物が日本にはいなかったこと、そして戦争を政治上の立場から「手段」として理解する基本を踏まえた人物が、政権とまったく関わっていな…
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シリーズ「占領下の日本社会」(30)終戦など考えようとしなかった軍事指導者が犯した2つの罪
陸軍の石井秋穂も、海軍の藤井茂も、2人の願望を口にしただけの内容が、そのまま大した抵抗もなくスムーズにこの会議を通ってしまったことに愕然とした。つまり大本営政府連絡会議では、まったく何の議論もなく、…
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シリーズ「占領下の日本社会」(29)戦争終結の腹案を起案した陸軍省高級課員、石井秋穂の驚き
戦争終結に関する腹案を起案したのは、陸軍省軍務課の高級課員である石井秋穂と、海軍省軍務課のやはり高級課員である藤井茂であった。昭和16年春の日米交渉開始のころから、陸海軍は共同で大本営政府連絡会議に…
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シリーズ「占領下の日本社会」(28)「戦争終末腹案」を期待や願望で描き、戦争に突入した軍事指導者の責任
この「戦争終末腹案」とは、今次の戦争がある段階に達した時点で、日本がいかにして講和に持ち込むかという基本方針である。まさに「腹案」という表現がふさわしいはずなのだが、実際に示された内容はなんとも曖昧…
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シリーズ「占領下の日本社会」(27)開戦と終戦の構想を描けなかった軍事指導者の冒険主義
太平洋戦争へ至る経過、そして開戦後の戦争指導などを分析していくと、そこにはあまりにも筋道の通らない軍事指導者の姿が浮かび上がる。私が大東亜戦争調査会の調査や、自主戦犯裁判構想が潰れたことを惜しむのは…
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シリーズ「占領下の日本社会」(26)「武士道」を重んじていた乃木将軍が批判した近代の軍事機構
乃木希典の「武士道問答」をもう少し引用してみたい。乃木が指摘しているのは、日本の軍事機構はある時期から、武士道を都合よく解釈して、曲解したまま軍事上の手引きにしてしまったということだろう。乃木は、軍…
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シリーズ「占領下の日本社会」(25)天皇にも「武士道」を説いた岩田宙造という文官
大東亜戦争調査会による戦争原因の調査、そしてそれと軌を一にして進んだ「戦犯自主裁判構想」案、いわばそれは車の両輪であった。 責任を明確にし、その責任者には応分の責任を取らせる。幣原喜重郎内閣…
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シリーズ「占領下の日本社会」(24)史実として語り継ぐべき次田大三郎と岩田宙造の奔走
戦犯自主裁判構想は、2つの思惑があった。 ひとつは、日本側がGHQ側の了解を得たうえで、独自に裁判を開いて「けじめ」をつけようという案である。これは第1次世界大戦後にドイツが行った戦犯裁判を…
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シリーズ「占領下の日本社会」(23)東京裁判直前に構想されていた幻の「自主戦犯裁判」
この連載で、以前「自主戦犯裁判」について触れたことがある。日本側でこの試みが計画されたが、昭和天皇が「かつての臣下の者を裁くのは忍びない」と言って、沙汰やみになったとの視点で紹介した記憶がある。 …
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シリーズ「占領下の日本社会」(22)米国も拍子抜けするほど日本人は占領を受け入れた
日本人がいかに戦時下の軍事指導者や軍人を憎んでいたかは、それこそ幾つもの例がある。私はこの40年ほど、一般兵士や戦時下に生きた人々の実感を、およそ1000人単位で聞いてきた。つまり、戦争の証言を確か…
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シリーズ「占領下の日本社会」(21)軍神崇拝が一転、罵声に変わった敗戦直後
太平洋戦争の敗戦後の日本社会は、軍人や軍事機構に徹底した憎悪が向けられた。太平洋戦争の3年8カ月、その前から見ていくと日中戦争からの8年、満州事変から数えるとほぼ14年間、日本は戦時の状態に入ってい…
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シリーズ「占領下の日本社会」(20)たった一人で「太平洋戦争前史」を書き上げた青木得三の執念
大東亜戦争調査会は、政府内部に置くことは認められなかったが、事務局長役の青木得三は、民間に組織を移して調査を始めた。私財を投じるような形で、この調査会の役割を守り続けたと言ってもよいだろう。執筆には…
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シリーズ「占領下の日本社会」(19)天皇の戦争責任を巡り幣原内閣で生じた足並みの乱れ
大東亜戦争調査会は太平洋戦争の原因を突き止め、歴史的な役割を果たそうとした。しかし、結局はソ連の横やりで果たせなかった。 戦争の真実が明らかにされると、ソ連にとって都合の悪い史実がいくつかあ…
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シリーズ「占領下の日本社会」(18)大東亜戦争調査会の挫折、戦勝国のエゴイズムによって「真相究明」が消えた
大東亜戦争調査会による「太平洋戦争の真因を政府が徹底調査する」という幣原喜重郎内閣の試みが、途中で挫折したのは極めて残念なことであった。 私は、占領初期のこの試みが中止に追い込まれた原因は、…
