保阪正康 日本史縦横無尽
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日本軍は暗号を解読。中国に賠償金を要求する声もあがった
日本軍の中支那派遣軍の参謀は、なぜ日中の和平工作が陸軍全体に漏れていったかについて、詳しく説明してくれた。平成に入って間もない頃で、「もう明らかにしてもいいだろうから」と言っていた。平成2(1990…
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石原莞爾ら不拡大派は参謀長の東條英機らに封じ込まれた
日本の軍人の戦略の曖昧さは盧溝橋事件が日中戦争へと拡大していくに従って、より明確になった。たしかに日本は軍事的に有利であった。8月13日には上海で日本軍と中国軍が新たに衝突することになった。日本軍は…
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中国との戦争に反対した「石原莞爾と戦争拡大派」のその後
日中戦争の不拡大を唱えたのは、参謀本部作戦部長の石原莞爾が中心だったのだが、彼の反対論は確かに一理あった。蒋介石政府はその中心に有能な官僚や実務家を集めて、政治的方向性を明確にしていた。経済的基盤が…
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スターリンの戦略は日本を戦わせ泥沼に引き込むことだった
中国国民党の戦略は、ソ連の戦略を逆手に取っている。盧溝橋事件をきっかけに一気に中国への侵略行為を進めていく日本軍は、スターリンの歓迎するところであった。この日本軍と蒋介石を指導者にして戦わせる。中国…
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陳立夫の証言と見解 スターリンはなぜ蒋介石を救ったのか
陳立夫の言う「共産党員」は、言うまでもなく党籍を持つ党員という意味ではなかった。ソ連のスターリンが描いている戦略に無意識に同調している軍人を指している。いやもっと具体的にいうのならば、当時の国際情勢…
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歴史観を持たない日本の軍人が愚かな侵略を行った
中国国民党には、孫文亡きあと、3つの有力なグループがあった。これは孫文の秘書でもあった山田純三郎の書き残した原稿からの引用になるのだが、山田流の言い方によると「西山会議派」「改革派」「独裁派」である…
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西洋を追いかける日本は西洋に倒されると陳立夫は分析していた
中国の文化と自国の文化を融合させた日本の文化、伝統は相応に意味のある、人類史の上では貴重な意味を持っていたはずである。陳立夫は、そういう文化を日本人の特徴と見ているかのようであった。ところが、と言う…
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「日本人はアジアの他国を侮った」と陳立夫は言った
私が陳立夫を取材したのは1990(平成2)年の春である。それから約2年の間に5回ほど面談して話を聞いた。国民党の組織部長として党を動かしていた彼は、蒋介石の右腕でもあった。兄の陳果夫とともに、日本軍…
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日本軍は「手向かう蒋介石を懲らしめる」と言い出した
蒋介石の関頭声明は、中国人の心を揺さぶった。日本軍が我が領土で勝手に軍を動かし、我々の祖先の残した歴史的責任を侮辱するがごときは許されない、とも述べていた。その声明の中で「いま中国は弱い国である。し…
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日本軍は停戦交渉を持ちかけつつ中国軍に一撃を加えた
日中戦争はこの盧溝橋事件が発端になり、やがて全面戦争に発展していった。たしかに7月7日の夜に発砲事件があり、小競り合いの様相は呈したが、それから明け方までは特に軍事衝突の兆候はなかった。ところが明け…
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1937年7月、盧溝橋での一発の銃声によって日中戦争が勃発
前回に続いてもう少し、孫治平の証言に耳を傾ける。彼はカリフォルニアの大学に留学してから、南京から届く情報や新聞によって次第に、日本軍が中国への侵略を強めていることを知った。そういう話をする時には、冷…
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日中戦争の中、米国知識人は中国への支援を惜しまなかった
前回触れた孫治平の証言をいま少し紹介していきたい。孫治平は孫文の子息である孫科の次男であった。1990年代初めに私は台北で取材することができた。温厚で優しい口ぶりが印象的であった。 むろん中…
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日本軍は内陸に誘い込まれたことに気づかず「勝った」と錯覚した
盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、それが長期戦の様相を帯びて、やがて対米英蘭戦争にと行き着く。昭和の戦争は歴史的に見れば、日本の軍人が対中国政策を誤ったのが原因であった。どうしてあれほど傲岸、…
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張学良は言った「私は日本の陰謀を見破れなかった」
張学良の回想を続けていく。 「当時の日本人は、自分たちが一番優れていると思っていたようですが、中国のことは全く分かっていなかったのです。(父が暗殺された)あの時、私が国旗を国民党の青天白日旗に…
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「日本軍人が大嫌い」張学良が語った父・張作霖の爆殺事件
昭和3(1928)年6月、張学良の父・張作霖は関東軍高級参謀の河本大作らによる陰謀で、乗っていた列車が奉天郊外で爆破され、死亡している。張作霖が自分たちの意見に耳を傾けなくなったが故に、関東軍が暗殺…
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軟禁状態から54年ぶりに解放された張学良は何を語ったか?
張学良のインタビューは、いくつかの国で報道された。正確に言えば1936年12月から、張学良は国民党政権下で軟禁状態にあったわけだが、時の台湾政府の指導者である蒋経国(蒋介石の長男)によって、1989…
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国共合作が成立するも、張学良は50年の軟禁の刑を受けた
周恩来が西安に乗り込んできた段階から、国民党と共産党の話し合いが進んだ。そのことは共産党側が張学良と接触していたことを裏付けていた。むろん南京にあっても、周恩来は陳立夫に接触を求めていたのだが、とに…
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スターリンは中国共産党に「蒋介石を殺すな」と命じていた
国民党の指導者である蒋介石が、旧北方軍閥を代表している張学良に西安で監禁されたというニュースは、日本社会でも号外で知らされた。中国の国民党の内輪揉めといった扱いで、それに共産党が絡んでいるとの見方で…
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「蒋介石、軟禁さる」というニュースが世界を駆け巡った
西安事件は、近代中国にとって重要な事件であった。蒋介石の指揮下に入っていた張学良が、駐屯地の西安を訪れた蒋介石とその幕僚に「反乱」という形で抵抗したのである。もともと蒋介石は、この地での共産党勢力の…
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「滅共第一」「抗日第一」国民党と共産党は反目していた
日中戦争の始まる前、中国の情勢は確かに混乱していた。大状況で言うならば、中国国民党の指導者である蒋介石が北伐を行い、全国統一を進めていた。国民党軍は各地の地方軍閥や政治組織を抑える形で中国各地に相応…
