保阪正康 日本史縦横無尽
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「溥儀は皇帝として生まれてきた人だった」
満州国皇帝溥儀に会った人、あるいは歴史的な関係で同じ場にいた人などを含めて、「あなたは溥儀を見たことがありますか」との書を書こうと思った。1990年代である。結局書かなかったのだが、その時に日本人、…
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満州事変後、関東軍はひそかに溥儀の皇帝服を作っていた
満州国の皇帝になる愛新覚羅溥儀は、辛亥革命で皇帝の立場を失った。270年ほど続いた清朝帝政は倒れたのだが、かなりの期間、紫禁城に住むことは許された。 革命が成ったといっても孫文らの影響力はま…
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満州国の執政に就いたとき39歳 溥儀は笑顔のない人だった
満州国の執政に就いた溥儀は、その望みどおり昭和9(1934)年3月1日に皇帝としての即位式が行われた。満洲国は帝政を実施することになったのである。それから11年5カ月後の昭和20(1945)年8月1…
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日本側の思惑を感じつつ26歳の溥儀は満州国の執政となった
昭和7年の5・15事件から同11年の2・26事件までのおよそ4年間、日本社会はファシズム体制を目指してまっしぐらに進んだ。むろん軍部が音頭を取ってということになるのだが、これに呼応する庶民の大半も軍…
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事件の裏側 陸軍省は軍への批判を封じ込め警察も萎縮した
ゴーストップ事件は天皇の一言で一気に解決に向かい、発端であった中村一等兵と戸田巡査が握手をして落ち着いた形になった。騒ぎも半年を過ぎてひとまずは解決したのである。しかしその解決の裏には、陸軍と内務省…
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陸軍と警察の意地の張り合いに天皇までが言及した
昭和8(1933)年6月17日に起こったゴーストップ事件は、10月になっても解決しない。最終的には陸軍大臣の荒木貞夫のところまで情報が届く。荒木は、大阪府警察部に謝らせるといきり立つ。皇軍の兵士に無…
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兵士と巡査が格闘 陸軍と警察の確執「ゴーストップ事件」
その事件は、昭和8(1933)年6月17日に起こった。とりとめもないさまつな事件のはずであった。 大阪の天神橋6丁目で赤信号を渡ろうとした一兵士(陸軍歩兵第8連隊の中村一等兵)が、交通整理を…
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侵略戦争の中「バカは死ななきゃ治らない」と庶民は叫んだ
昭和11年2月の2・26事件、そして翌12年の日中戦争と、日本は新たに中国への侵略の意思を鮮明にしていった。むろんこの軍部の暴走を政治や世論が止める状況ではなかった。むしろ多くの国民は軍部をまるで救…
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東京・日本橋の白木屋火災では和装の女性14人が死亡した
この時期に阿部定事件とともによく語られるのが東京・日本橋の白木屋火災である。この火災は女性の和服姿から洋装への変化を促すきっかけにもなった。改めてその細部を見てみる。 昭和7年12月16日の…
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「阿部定事件」を利用した軍事指導者と警察の2つの思惑
2・26事件から3カ月後の5月18日、東京・荒川の待合で50歳ぐらいの遊び人風の男性の遺体が発見された。この男性は1週間ほど前から、30歳前後の玄人とみられる女性と泊まり込んでいた。この日の朝、その…
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1年間で944人、なんと1日に3人が三原山で投身自殺した
当時の新聞を見ると、三原山で2人の友人に飛び込み自殺をされた女子学生は、実名を大きく報じられ、「死に誘う女」とまるで犯罪人のように糾弾された。そのプライバシーなども猟奇的に暴かれた。メディアは彼女を…
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残された女子学生の正体は「三原山の死の立会人」だった
昭和初年代は国家が暴力化したと言えるわけだが、そのことは社会そのものがある歪みを伴うことであった。人びとが心理的な逃げ場を求めて、退嬰的な風俗に傾いたり、将来に絶望するしかないと受け止めた青年男女の…
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昭和初期、日本の若者たちはなぜ自殺したのか?
暴力の時代に入って、人々の感情も歪みを見せることになった。昭和8、9年ごろの日本社会はその歪みがいくつもの社会現象を生んでいる。歪みのひとつが「死」への傾斜であった。社会のありように自殺する人々が一…
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「爆弾なんか手で受け止めよ」の歌詞を国民に押しつけた
東京音頭が全国の町や村に広がっていくそのスピード、そして年齢に関係のない広がりはどのように説明すべきだろうか。改めてその理由を考えてみると、すぐに幾つかの答えが浮かんでくるように思う。政治的にはテロ…
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屈折した庶民は熱病のように「東京音頭」で踊りまくった
昭和の陸軍はなぜテロやクーデターを繰り返し、そして国民を戦争(日中戦争、太平洋戦争)に駆り立てたのか。そのことをある程度明確にして、責任を問わなければならないのは当たり前のことだ。しかし、そういう問…
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永田鉄山刺殺事件 相沢三郎の日本刀で永田は“即死”だった
昭和陸軍はある時期から平衡感覚を失ってしまった。昭和3年の張作霖爆殺事件を契機として、テロと陰謀をもって自己の主張を通す組織となっていった。そういう状態で日中戦争、そして太平洋戦争に入っていったこと…
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元老の西園寺公望の働きかけで「斎藤実内閣」が誕生した
元老の西園寺公望は、軍部の威嚇や恫喝を受けながらも、軍事内閣を組閣するつもりはなかった。興津から東京に出てきて、西園寺は政治指導者や枢密院議長ら多くの人物に会って、この難局をどう乗り切るかを考えた。…
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「ファッショニ近キモノハ絶対ニ不可ナリ」と天皇は言った
5・15事件は確かに表面上は海軍軍人や陸軍の候補生らによる首相暗殺であったが、しかしこの事件は、天皇をはじめとする宮中や天皇側近の者たちに不安と警戒心を与えることになった。天皇は事件の一報を受けた時…
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犬養襲撃聞いた内閣書記官長は悲しむどころか笑顔を見せた
その一方で軍外では決行者たちへの共感、共鳴があった。また、一方で決行者への反発、怒り、それに不満が至るところで爆発した。 例えば丸の内警察署では、犯人が東京憲兵隊に逃げ込んだと知って署員20…
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荒木貞夫陸相は海軍の国家改造派の要人たちと通じていた
海軍内にあって国家改造運動を進めた中心人物は藤井斉少佐(昭和7年1月の上海事変で戦死。その後、少佐に昇進)であった。藤井は理論を持ち、人望もあり、国家改造の組織として王師会を結成していた。5・15事…
