保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(24)昭和天皇とマッカーサーの会見内容は日米で全く違っていた
昭和天皇とマッカーサーの第1回の会見は、昭和20(1945)年9月27日に行われた。太平洋戦争が国際法的に終結したのは、9月2日だから、それからわずか25日後のことである。史実としての紹介を記述して…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(23)天皇とマッカーサーの会見通訳を一回だけ奥村勝蔵が行った不思議
このシリーズで、しばしば「保阪項目」とか「保阪メモ」などという表現を用いている。シリーズの始まる時に説明したのだが、その後にお読みになっている読者の方から問い合わせをいただくことも多い。そこで再度簡…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(22)53年後に外務省が電報遅延の実態を公表した理由を探る
外務省がなぜ53年後の平成6(1994)年11月に、電報遅延の実態を公表したのであろうか。この時の内閣は、村山富市首相の時代である。その前年(平成5年8月9日)、日本新党の代表である細川護熙は、日本…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(21)1994年、外務省は文書を公表、謝罪した
外務省の大臣官房総務課が1994年に公開した9点の関係文書は、「対米覚書伝達遅延事情に関する記録」である。1等書記官の奥村勝蔵の手記(その日時は昭和20年10月30日になっている。この日付が意味する…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(20)外地から引き揚げてきた職員が吉田茂に迫った
通告が遅れた真珠湾奇襲攻撃。その理由は何だったのか。最初の真相究明の委員会は戦時下でもあり、海軍や外務省が真相究明に乗り出すほどの余裕がなかったことは、前回までに記述した通りである。いわば4つの対立…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(19)野村大使の回想記の原稿のどの部分が抜き取られたのか
野村吉三郎の回想記「米国に使して(日米交渉の回顧)」は、もともとの原稿を東京裁判の検事団長のキーナンが強引に野村から借り出したことで、一度外部に持ち出されていた。秘書の煙石学によれば、返却されてきた…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(18)遅延を自分たちのせいにされた電信官たちの怒り
電報遅延に関する調査委員会について、私の調べ(1990年代初め)では、第1回の調査は昭和17(1942)年8月になる。ただし、委員会の発足そのものはかなり表面的であったようだ。 太平洋戦争開…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(17)電報遅延に関する調査委員会は存在した
通告なしの真珠湾奇襲攻撃は、実は国家としての基本的姿勢に関わる大事であった。それが証拠に今もなおトランプ大統領のように、この史実を持ち出して、日本をチクリと皮肉る政治家は少なくない。 これは…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(16)駐米日本大使館の館員は誰一人、真珠湾攻撃を知らなかった
野村吉三郎大使が個人的に秘書を雇用して、その業務を担当させたという事実は、これまで述べてきたように野村を支える体制が大使館内部で出来上がっていなかったためである。保阪メモの第50項(なぜ大使が個人秘…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(15)伝わらなかった陸軍幕僚の暗号文解読懸念
「外務省とワシントンの大使館との暗号電報は全て解読されているという恐れはありませんか」と陸軍省の外交担当の幕僚(Aとしておこう)は、注意を促したく、歩を外務省に向けた。しかし実際には外務省に向けて歩く…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(14)陸軍省軍務課幕僚が衝撃を受けた野村大使の報告書
野村吉三郎大使とハル国務長官の会談の模様は、毎回詳細な報告書となって、東京に電送された。その報告書は毎回、外務省のアメリカ課と陸海軍の軍務課のそれぞれ日米関係の担当者の机に回された。陸軍省軍務課の幕…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(13)野村大使と日系2世秘書は、外交交渉の恐ろしさを知らなかった
近現代史の中でもっとも重要な時期の対米関係で、駐米大使の秘書が外務省の交渉慣れした外交官ではなく、大使が日系2世などを通じて探した青年であったというのは、なんとも不思議である。煙石学はその頃にまだ2…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(12)松岡外相人事こそが宣戦布告通知遅れの間接的原因
野村吉三郎海軍大将が、駐米大使に起用されたのは、昭和15(1940)年11月のことであった。もともとは海軍の法規畑に詳しい軍人と自負していたのだが、昭和14年8月に誕生した阿部信行陸軍大将の首相時代…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(11)海軍出身の野村大使と外務省プロパーとの間の決定的溝
保阪メモ第22項目を見ていくと、いくつかの史実が歴史的視点から検証されていなかったことに気がつく。思いつくままに並べてみても、「なぜ野村吉三郎大使は秘書を個人的に雇わなければならなかったのか」「開戦…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(10)あまりにもずさんだった日本大使館の情報管理
保阪メモの第22項目(駐米日本大使館のタイピスト4人はなぜ真珠湾攻撃の前に辞めたのか)について、その概要を見てきた。文書がアメリカ人によって打たれていたという事実を、私たちはほとんど知らなかった。今…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(9)日本大使館への監視は次第に暴力的になっていく
私は、4人のタイピストのうち、ウイルソンと名乗っていた男性は情報機関のスタッフだと思う。この点を当時の課員にただしても、誰もが「そういう人物はあまり覚えていないなあ」と異口同音に話すのである。 …
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(8)日米開戦秘話 駐米大使館の「面従腹背」とタイピストによる情報漏洩疑惑
駐米大使館の駐在武官・実松譲による証言は、私の考えていた光景とほぼ一緒であった。野村吉三郎大使の命令に、外務省の課員たちは徹底して面従腹背の態度だったのである。外務省プロパーが大使であったならば、確…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(7)真珠湾攻撃秘話…野村吉三郎駐米大使にはなぜ正式な秘書が付かなかったのか
アメリカ人タイピストはいかにして日本大使館に入ったのか。これについて当時の課員たちの証言を求めるならば、ある課員の以下の証言が適切である。 「大使館には現地の人を採用せざるを得ない事情があるの…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(6)米国人タイピストのウイルソンはスパイと疑われても不思議ではなかった
この英文タイピストの存在は当時の大使館内でも誰もが知っていたというわけではない。 大使館の主要任務は、明確に分かれていて、2等書記官、1等書記官、それに電信官などそれぞれが自らの担当を日々こ…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(5)駐米日本大使館の米人タイピストは、なぜ真珠湾攻撃の前に辞めたのか
昭和16(1941)年12月8日の未明の日本海軍による真珠湾奇襲攻撃は、通告なしの先制攻撃であった。確かに日本政府はアメリカへの国交断絶を伝える文書を、ほぼ攻撃時間に合わせて渡そうとしていた。しかし…
