保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(33)吉田茂と鳩山一郎、後継を巡る3条件か4条件かの争い
吉田茂のマキャベリストの側面を、保阪項目ではいくつか挙げているのだが、第132項で私は「吉田茂と鳩山一郎の対立、3項目か4項目か」と記した。少々分かりづらいが、まずはこれを噛み砕いて説明する必要があ…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(32)吉田茂の計算されたユーモアとしたたかさ
吉田が初めてマッカーサーと会ったとき(昭和20年9月)、どのような振る舞いをしたのか、そのエピソードを語っていく。 2人は東京・赤坂のアメリカ大使館で、片方が占領軍の最高指揮官、片方は敗戦国…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(31)驚かされた吉田茂のマキャベリストの側面
このシリーズは、開戦時の通告遅れという日本側の失態、そして敗戦直後の天皇とマッカーサーの第1回会見時の通訳の人選との関係を見ることで、吉田茂の高等な政治戦略を検証してきた。くり返すことにもなるが、私…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(30)奥村勝蔵の辞表提出は吉田茂と打ち合わせ済み
吉田茂の第2段階の戦略も見事に成功したと言ってもいいのではないかと、私は考えている。奥村勝蔵を使って外国人記者に第1回の会見内容を漏らした、いやマッカーサーの回想記に書いてある内容を伝えたというのが…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(29)吉田茂と牧野伸顕による奥村通訳起用の謎解き
吉田茂が奥村勝蔵に因果を含めて、第1回の通訳に当たらせた理由は奈辺にあるのか。これを突き止めたいと、私は考えてきた。こういう疑問に答える史書はこれまでなかった。私がつくった「保阪項目」とは、昭和史の…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(28)天皇通訳の奥村勝蔵、世紀の意訳の背景を探る
吉田茂が、どのような論法で奥村勝蔵に因果を含めたのかは定かにはわからない。しかし事前に相応の時間をかけて、やりとりの練習を試みたであろうことは容易に想像ができる。この時に奥村がいかなる心境になって、…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(27)昭和天皇は「責任」に類する発言をこれまでしたことがなかった
昭和天皇とマッカーサーの第1回会見に秘められた歴史的構図について、より詳しく説明を続けよう。ここにはいまだ検証されていない「戦後社会をめぐる戦い」が内在しているからである。戦いとはどういう意味か。私…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(26)あえて奥村勝蔵を通訳に指名した吉田茂の深謀
天皇とマッカーサーの第1回の会見で、天皇はマッカーサーが回想記に記述したような発言を本当にしたのか。それとも外務省、宮内庁が57年も後の平成14(2002)年10月に公表した通訳の奥村勝蔵の記録にあ…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(25)昭和天皇はマッカーサーに対し「責任」を口にしたのか
昭和天皇は、マッカーサーに対して実際に回想記にあるように、「一切の責任は私にある」という意味のことを言ったのであろうか。それとも通訳の奥村勝蔵が記録して残したように、そのような明確な言質ともいうべき…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(24)昭和天皇とマッカーサーの会見内容は日米で全く違っていた
昭和天皇とマッカーサーの第1回の会見は、昭和20(1945)年9月27日に行われた。太平洋戦争が国際法的に終結したのは、9月2日だから、それからわずか25日後のことである。史実としての紹介を記述して…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(23)天皇とマッカーサーの会見通訳を一回だけ奥村勝蔵が行った不思議
このシリーズで、しばしば「保阪項目」とか「保阪メモ」などという表現を用いている。シリーズの始まる時に説明したのだが、その後にお読みになっている読者の方から問い合わせをいただくことも多い。そこで再度簡…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(22)53年後に外務省が電報遅延の実態を公表した理由を探る
外務省がなぜ53年後の平成6(1994)年11月に、電報遅延の実態を公表したのであろうか。この時の内閣は、村山富市首相の時代である。その前年(平成5年8月9日)、日本新党の代表である細川護熙は、日本…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(21)1994年、外務省は文書を公表、謝罪した
外務省の大臣官房総務課が1994年に公開した9点の関係文書は、「対米覚書伝達遅延事情に関する記録」である。1等書記官の奥村勝蔵の手記(その日時は昭和20年10月30日になっている。この日付が意味する…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(20)外地から引き揚げてきた職員が吉田茂に迫った
通告が遅れた真珠湾奇襲攻撃。その理由は何だったのか。最初の真相究明の委員会は戦時下でもあり、海軍や外務省が真相究明に乗り出すほどの余裕がなかったことは、前回までに記述した通りである。いわば4つの対立…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(19)野村大使の回想記の原稿のどの部分が抜き取られたのか
野村吉三郎の回想記「米国に使して(日米交渉の回顧)」は、もともとの原稿を東京裁判の検事団長のキーナンが強引に野村から借り出したことで、一度外部に持ち出されていた。秘書の煙石学によれば、返却されてきた…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(18)遅延を自分たちのせいにされた電信官たちの怒り
電報遅延に関する調査委員会について、私の調べ(1990年代初め)では、第1回の調査は昭和17(1942)年8月になる。ただし、委員会の発足そのものはかなり表面的であったようだ。 太平洋戦争開…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(17)電報遅延に関する調査委員会は存在した
通告なしの真珠湾奇襲攻撃は、実は国家としての基本的姿勢に関わる大事であった。それが証拠に今もなおトランプ大統領のように、この史実を持ち出して、日本をチクリと皮肉る政治家は少なくない。 これは…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(16)駐米日本大使館の館員は誰一人、真珠湾攻撃を知らなかった
野村吉三郎大使が個人的に秘書を雇用して、その業務を担当させたという事実は、これまで述べてきたように野村を支える体制が大使館内部で出来上がっていなかったためである。保阪メモの第50項(なぜ大使が個人秘…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(15)伝わらなかった陸軍幕僚の暗号文解読懸念
「外務省とワシントンの大使館との暗号電報は全て解読されているという恐れはありませんか」と陸軍省の外交担当の幕僚(Aとしておこう)は、注意を促したく、歩を外務省に向けた。しかし実際には外務省に向けて歩く…
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シリーズ 保阪メモ「昭和史余話」(14)陸軍省軍務課幕僚が衝撃を受けた野村大使の報告書
野村吉三郎大使とハル国務長官の会談の模様は、毎回詳細な報告書となって、東京に電送された。その報告書は毎回、外務省のアメリカ課と陸海軍の軍務課のそれぞれ日米関係の担当者の机に回された。陸軍省軍務課の幕…
