山﨑武司 これが俺の生きる道
-

「家を建てるとトレードされる」「4番は放出される」中日の不吉な2つのジンクスに俺は…
2001年オフ、悩みに悩み抜いて国内FA権を行使した。中日での立場に不安を抱き、横浜から熱心な誘いを受けて移籍へ大きく天秤が傾いた。 しかし、現役時代に通算284勝した大投手で、同年オフに就…
-

横浜とのFA交渉で引っ掛かった森祇晶監督の冷淡 落合博満さんは非通知着信で「探り」を入れてきた
国内FA権を行使した2001年オフ。11月7日に中日と3度目の残留交渉が終わり、その2日後、獲得に乗り出してくれた横浜の大堀隆球団社長と初めてお会いした。 「うちのチームにどうしても必要なんだ…
-

中日からFA宣言した交渉の一部始終 2001年オフは「残留」と「移籍」で揺れる毎日を過ごした
国内FA権を取得した2001年オフは、「残留」と「移籍」で揺れる毎日を過ごした。 10月18日にはナゴヤ球場で秋季練習がスタート。32歳のレギュラー選手である俺も、なぜか当たり前のようにメン…
-

「おまえになんか、値がつかないよ」編成本部長の捨て台詞でFA宣言を決意した
2001年のオフ、初めて国内FA権を取得した。それまで、球団との契約交渉の席で罵られたこと、00年、打率が3割を超えても本塁打数が少ないと評価されなかったことが引っかかっていた。球団の対応に疑念を抱…
-

査定担当から浴びせられた辛辣な低評価の数々…球団は俺を必要としているのかと疑念を抱くようになった
アップシューズで打席に立った2000年。ヒットを量産できたのは、ケガの影響もあった。前年の1999年、リーグ優勝を決めた9月30日のヤクルト戦で骨折した左手首がまだ完治しておらず、痛みも残っていた。…
-

オープン戦での“ポカ”をきっかけに2000年はアップシューズで全打席に立つハメになった
2000年春。巨人とのオープン戦で宇都宮の球場に着いて自分のバッグを開けた俺は青ざめた。 スパイクをナゴヤドームのロッカールームに置き忘れてしまったのだ。 すぐさま、星野仙一監督のこ…
-

「おまえもついて来い」星野監督は左手首骨折の俺を日本シリーズに同行させてくれた
1999年、中日は11年ぶりのリーグ優勝を果たした。しかし、俺は優勝を決めた試合で左手首を骨折。ビールかけは遠巻きに見ることしかできず、王貞治監督率いるダイエー(現ソフトバンク)との日本シリーズにも…
-

「僕はもうすぐ死ぬんです」…俺の中で今も生き続ける歌手・池田貴族さんの言葉
1999年9月30日、ヤクルト戦に勝って11年ぶりのリーグ優勝を果たした。でも、俺はその歓喜の輪に入ることができなかった。 この日の先発は山本昌さん。ヤクルトの真中満がバントをし、打球を処理…
-

星野監督に「オッサン、ボケー!」と叫んだ逆転3ラン…島野育夫さんの「星野ワヤやなあ」で溜飲が下がった
前回のコラムで、監督にゴマばかりするコーチについて書いた。 対照的だったのが島野育夫さんだ。星野仙一監督時代にヘッドコーチなどを歴任。正直、星野さんより何倍も怖かった。何度も首根っこをつかま…
-

俺と高代延博コーチの「乱闘寸前の悶着」に星野監督が言い放った意外な一言
リーグ優勝した1999年、この年から一軍内野守備走塁コーチに就任した高代延博さんとは、どうしてもウマが合わなかった。 沖縄・春季キャンプでバントフォーメーションの練習中、星野仙一監督が姿を見…
-

99年シーズン途中で極度の不振…典型的ゴマすりコーチとの闘争
「星野仙一監督はユニホームを脱ぐと優しい」 以前、この連載でそう書いたが、ユニホームという「戦闘服」を着ればやはり闘将に戻る。 リーグ優勝を果たした1999年は開幕から破竹の11連勝。…
-

後輩の福留孝介から教わったプラス思考 弱音を吐かず、絶対に「できない」とも言わない
1997、98年の2年間は思うような成績を挙げられずにいた。97年はたった19本塁打。98年も「合格ライン」にしていた30本には及ばず、27本止まり。チームも優勝を逃した。 「この合格ライン自…
-

星野監督と1週間連続の晩飯ざんまい…ハワイ自主トレ中に突然、「星野ですう~」
福留孝介とハワイ・オアフ島で自主トレをしていた2001年1月のある朝、部屋の電話に叩き起こされた。 「おはよう」 「え、誰?」 そう返すと、「分からないんですか?」と急に敬語にな…
-

福留孝介は星野監督にも臆さなかった…「遊んでる」と思われがちなハワイ合宿の全貌
2001年1月はハワイでの自主トレを計画していた。後輩の落合英二、種田仁、小山伸一郎、プロ2年目を終えたばかりの福留孝介も連れていく予定だった。 が、それを知った星野仙一監督は、「何!? ハ…
-

福留孝介の飽くなき向上心…首位打者を取っても「物足りない。3割5分は打ちたい」
「武司さんの記録を抜きたい」 これは中日のチームメートだった福留孝介の言葉。記録とは現役最年長記録のことだ。 孝介は俺と同じ45歳のシーズンにユニホームを脱いだが、練習嫌いの俺とは違っ…
-

球団代表の温情がうれしかった1997年オフの契約更改…ドーム移転で成績下落、チームは最下位に沈んだ
1997年、中日はナゴヤ球場からナゴヤドームの本拠地移転で苦戦を強いられた。結局、チームの調子は上向かないまま最下位でシーズン終了。星野監督も大荒れで、新しくできたばかりのナゴヤドームの選手食堂で、…
-

外国人審判を大豊泰昭さんが突き飛ばし…星野監督“出動”で「未経験の恐怖」を与えた舞台裏
1997年は俺にとってもチームにとっても試練の年だった。自身の打撃不振に加え、ナゴヤ球場からナゴヤドームへの本拠地移転。球場全体が広くなった影響で、打撃成績はからっきしだった。 広くなったの…
-

「もう野球やめたる!」…俺は高卒1年目の森野将彦に“泣かされた”
1996年に本塁打王を獲得。オフはプロ野球人生で初めて、「キング」として見られる日々が続いた。地方遠征の試合に行けば、学生やアルバイトの子たちが興味本位でバッティング練習をのぞきに来た。 「し…
-

高畠導宏さんにはとてもお世話になった。絶不調の俺に手を差し伸べてくれた名伯楽
1996年に「本塁打王」の称号を手にした後、大きなプレッシャーと不安に襲われていた。タイトルを取ったシーズンは終盤の9月から打撃が絶不調。翌97年の春季キャンプになっても調子が回復する兆しはまったく…
-

本塁打王を取ったオフ、年を越したら得体の知れない不安と重圧に襲われた
1996年オフの契約更改は年俸1億2000万円でサイン。バラ色のオフを迎えた俺は、名古屋に加えて東京のテレビ局に引っ張りダコの日々だった。 「プロ野球選手というのは、活躍してスターになったら積…
