秋頃に自覚、「ノムラの考え」に傾倒していつしか“野球好きの少年”に戻っていた
ある年の夏場、練習日をオフにしてほしいと野村克也監督に直談判すると、あっさり許可してくれた。
俺はこの頃、野村監督のことをまるっきり勘違いしていたと痛感していた。会って話すまでは一方的でワンマンな性格だと思っていたが、こんなにも選手側が提案した要望や意見を聞いてくれるとは思いもよらなかった。
春季キャンプのときもそう。二軍でベテラン組の調整だったから、自分がやりやすいように自由に練習していた。ハタから見ればわがままなやり方だったかもしれないけれど、野村監督は何も言わなかった。
午前中のアップや守備練習をみんなと一緒にやった後、昼の30分間、他の選手がランチをしている間にひとりでバッティング練習をした。ボールは打撃練習で他の選手が何度も使っていくことで、湿気や土、汚れがついて重くなり飛ばなくなる。その感覚がすごく嫌だったから、自分専用のボールケースを1箱作って、120~150球打ちこんだ。他の選手と時間をずらして昼食をとり、午後は自分のやりたいメニューをやって終わるのがルーティンだった。
「何をやってもいい。ただ、全部自己責任だぞ」
野村監督には常にそう言われていた。
若手の頃は「やらされる練習」が当たり前。キツイ練習も「やれ」のひと言で片付けられた。「なぜこれをやらなければいけないのか」「これをやることでどういう効果があるのか」なんて考えもしなかった。
でも、野村監督は「考えて野球をやれ」がポリシー。練習のひとつ、打席での一球すべてに意味と根拠を求める。
「本塁打を打つのも三振するのも、必ず理由がある。1つのストライクにもいろんな種類があって根拠がある。それを捕手は見ている。『ああ、取られちゃった』じゃなく、なぜ1ストライクを取られたかを考えろ」
これが口癖だった。
自分で考えて行動する責任が生まれたことで、より練習に真剣に取り組んだ。若手の頃より現役終盤の方がよっぽど真面目にやっていたと思う。
野村監督就任初年度の2006年もチームは前年に続く最下位に沈んだ。それでも、チームの雰囲気は確実に変わった。チームの勝率も上昇(.281→.356)。
俺自身の打撃も
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