江戸おんな職人余録 第二弾「焼き討ち前夜の密談」
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(1)海風が冷たく耳たぶがちぎれそう
〈1〉 文久二年(一八六二)十二月一日、空には雲ひとつ無く、青く晴れ渡っていた。 井筒屋の女将である糸は、綿を天日干しするために干場にいた。 海風が冷たく耳たぶがちぎれそうなほ…
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(2)兄さんより役に立ちまっせ
愛想よく振る舞っているようだが、弥助の人を威圧するような雰囲気に、身の毛がよだった。 確かに夫から弥助という弟がいることは聞いていた。 だが、連絡を取り合う様子もなく失念していた。 …
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(3)どこから戻ってきた布団だい
佐吉は怪訝そうに客に視線を向けたが、そのまま帳場へ向かった。 糸と弥助の無言の駆け引きが続く間に、小僧が急須と茶碗を盆にのせて運んできた。 「女将さん気が付きませんでした」 十…
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(4)お糸さん…お願いがあるんだけど
糸は布団の端をつまみ、縫い目を確かめた。布団の側だけではなく、中の綿まで染みている。品川は海風が強く、まして乾燥した季節である。火の気を思わせる匂いに、糸の胸の奥がひやりとした。 「……この布…
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(5)布団の中身は井筒屋で預かります
問い詰められても茜はしばらく黙っていた。が、やがて小さく息を吐いた。 「あたしひとりじゃもう手に負えなくて……。どうしたらいいんだか」 茜はその場でしゃがみ込み、弱音を吐いた。 …
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(6)近江屋の善七さんがお見えです
「心配事が重なった後には、良い知らせがやってくるもんや。世の中そうして帳尻が合うのやろうな」 達観したような物言いに、糸はくすりと笑った。 胸の奥のくすぶりが、母ののんきさに救われる。…
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(7)彦三が死んだのは はやりの風邪
「仕事もしっかりした信のおける人やった。いくつで亡くならはったん」 善七の口ぶりには、五個荘が選んだ人だ、という前提があった。 家を背負って前に出る器ではない。だが、家に入って帳簿と口…
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(8)見送りながら懐の重みを確かめる
火の気、油気、人の気配。 糸はそれを忘れたことはなかった。 「ほな、これで失礼いたします」 善七は立ち上がり、いつもの行商の顔に戻った。 「帰りに土蔵相模さんにも寄ります…
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(9)弥助が客の出入りをじっと見張る
「……ご宿泊ですか」 「そうだが……、怪しい奴がいねえか調べねえと、落ち着いて寝られやしねえ」 大真面目な顔をして、弥助は周囲を笑わせた。 いちばん怪しいのはお前だ、と誰もが喉ま…
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(10)飯盛り女が部屋に滑り込む
『兄の彦三が世話になったと聞きまして……』 『昔から、井筒屋さんとはご縁があるもので……』 『ちょっとばかり、力を貸してもらえたら……』 悪くない口ぶりだ。 ただし、どの言…
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(11)浪人にしては殺気がない
行商の身なりのまま所用を片づけると、帰り道を少しだけ外す。 英吉利の公使館を建てている最中らしく、冬の乾いた空気の中、木槌が梁を打つ音が、山肌に乾いて響いていた。 善七は立ち止まり、…
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(12)弥助がまたやってきて店表で…
拝啓 師走の折、品川宿も人の出入りが激しい頃と存じます。 井筒屋の方は、皆つつがなく商いを続けておられることと拝察いたします。 さて、近ごろ東海道筋、とりわけ品川近辺の世情が、にわか…
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(13)女所帯のくせに強情やないけ
糸が姿を現した瞬間、騒がしさがすっと引いた。 弥助が振り向く。 「よう、やっと出てきたか。随分と御大層に奥に引っ込んでやがる」 糸は何も言わず、帳場の内側に立った。 足…
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(14)手代が弥助を引きずり放り出す
「八平、勘定が終わったら、全額手形にして売っておしまい」 「へい」 八平はにやりとした。 弥助の顔色は真っ青になった。 結局、弥助は自分の尻に火を付けた格好だ。 …
