五木寛之 流されゆく日々
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連載12141回 対談集の過去帳 <3>
(昨日のつづき) 過去の「対談本」を、こうして眺めていて気づくのは、その年に何冊も刊行しているときと、意外に対談の数が少い時と両方があることだ。 たぶん、2度にわたる休筆期間が関係しているのか…
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連載12140回 対談集の過去帳 <2>
(昨日のつづき) さて85年には、井上陽水さんとの対談集『青空ふたり旅』が角川文庫になった。 80年代には『風の対話集』という、いっぷう変った対談集がブロンズ新社から出ている。 90年代に…
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連載12139回 対談集の過去帳 <1>
これまで何冊ぐらい<対談集>を刊行してきただろう。 自分の昔の本をあまり保存していないので、指折り数えてみても、あまりはっきりしないのだ。 たしか最初の対談集は、 『白夜の季節の思想と行動…
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連載12138回 やっぱり人が面白い <1>
仕事を通じて、沢山の人と出会った。 雑誌や新聞の対談もあるし、ラジオのゲストとして招いたかたがたもいらっしゃる。 一期一会の出会いだったこともあるし、その後も細く長い縁が続いた人もいた。 …
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連載12137回 新聞について語る <3>
(昨日のつづき) 新聞通信調査会シンポジウムの私の講演は、本題の<戦後80年とメディア>というテーマには、ほとんど触れることなく、個人的な思い出話に終った。 本当は私がそこで伝えたかったのは、…
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連載12136回 新聞について語る <2>
(昨日のつづき) プレスセンター・ホールでの講演とは関係がない話だが、『燃える秋』を、私は恋愛小説のかたちをとった政治小説として書いた。『燃える秋』は映画化されたが、そこのところがまったく抜けてい…
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連載12135回 新聞について語る <1>
きょうは久しぶりに東京のプレスセンターホールで講演。 <新聞通信調査会>主催の『戦後80年とメディア』というシンポジウムの、基調講演といえばおおげさだが、要するに前座をつとめたのだ。 本番のシ…
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連載12134回 九十歳の壁の実態 <2>
(昨日のつづき) 以前、高齢者の運転免許の講習のときに、 「きょうは何年何月の何日ですか」 と、きかれたことがあった。 とっさにたずねられて、少々あわてた記憶がある。 歳をとると、誰…
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連載12133回 九十歳の壁の実態 <1>
<七十歳の壁> とか、 <八十歳の壁> とかいう言葉が一時はやった。 <壁>というのは、ひとつの限界のことである。 そこを越えると、別世界に足を踏み入れることになる。それまで生きてきた…
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連載12132回 後悔さきにたたず <5>
(昨日のつづき) つらかった事、苦しかった事を、忘れようとつとめる人がいる。 その反対に、昔の痛みを絶対に忘れずに、その苦境の記憶をバネにして生き抜いていこうとする人がいる。 昔の事でクヨ…
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連載12131回 後悔さきにたたず <4>
(昨日のつづき) あとになってから、しまった、せめて日記でもつけておけばよかった、と後悔するのは、1945年8月15日以後の日々である。 北朝鮮で敗戦を迎えてからの行動を、簡単でいいから、なぜ…
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連載12130回 後悔さきにたたず <3>
(昨日のつづき) 以前、『懺悔の値打ちもない』という歌が流行ったことがあった。 <懺悔とは、犯した罪を神仏の前で告白し、悔い改めること 誓うこと> と、辞書にはある。 故・梅原猛さんが本…
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連載12129回 後悔さきにたたず <2>
(昨日のつづき) 自分の歩いてきた道をふり返ってみると、後悔することはいくらでもある。 あの時、こうすればよかったのに、と口惜しいことだらけだ。 しかし、私は本来、いい加減な体質で、それら…
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連載12128回 後悔さきにたたず <1>
人はある年齢に達すると、自分のルーツに対して急に関心を抱くようになるものらしい。 作家でも有名な先輩がたが、急に先祖の話を書きだしたりして、けげんに思ったりすることがあった。 私は昔からデラ…
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連載12127回 アヒルの養生論 <10>
(昨日のつづき) ヒトの体というのは面白い。 歳とともに衰えていくものだが、また扱いようによっては意外な反応を示すものである。 私はこれといった趣味をもたないが、自分の体には興味がある。 …
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連載12126回 アヒルの養生論 <9>
(昨日のつづき) 昔はカメラのピント合わせは、いちいち手でやっていた。今はなんでも自動の時代だ。その便利さに驚く。 しかし、人間の眼は、何万年も前から自動焦点である。その機能の精密さは呆れるほ…
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連載12125回 アヒルの養生論 <8>
(昨日のつづき) ヒトの情報集配活動のうち、特に大事なのは視覚である。 幸運にもあたえられた視力は、できるだけ大事にしなければならない。 視力のなかでも、眼球のレンズ機能はじつに驚くべきも…
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連載12124回 アヒルの養生論 <7>
(昨日のつづき) 眼球の焦点トレーニングにしても、その他の養生法にしても、やることは子供の遊びのようなものだ。単純で幼稚な遊びである。セオリーもエビデンスもない。 ただ面白いからやる。しかし、…
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連載12123回 アヒルの養生論 <6>
(先週のつづき) 眼球の焦点合わせのメカニズムなど、私にはわからない。 だが、それが凄い能力であることは感じられる。一瞬、視界を変えた瞬間に目に映るものに焦点がピタッと合うのだから。 その…
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連載12122回 アヒルの養生論 <5>
(昨日のつづき) ふだんやっている実感としては、上下の瞼を素早く閉じたり開いたりしている感覚だが、実際には、下の瞼はそれほど動かない。上の瞼をシャッターをおろすように上下させている感じである。 …