保阪正康 日本史縦横無尽
-
民主主義志向の官僚と“無自覚の社会民主主義者”田中角栄
旧内務省の地方局畑育ちの官僚は、警保局育ちの官僚よりもはるかに民主主義的な志向が強かった。田中角栄の派閥にはそういうタイプの官僚が集まっていた。いわゆるハト派タイプも少なくなかった。逆に警保局育ちの…
-
後藤田正晴に旧内務官僚はなぜ田中角栄を支持したのか
田中角栄の政治的生命は、ロッキード事件による逮捕でも表面的にはゆるがなかった。田中の派閥はむしろ増えることにもなり、その政治力は昭和史の中でも稀有なほどの強さを見せた。田中は、自らの刑期を重くさせな…
-
田中角栄の単行本では学者Hの意見は書かなかった
田中角栄がどのような状況になっても支持するというグループに、学者が入っているとは思わなかった。「越山」への投稿者の一人であったHは仮名であったが、私の取材目的を確かめて取材に応じることになった。Hの…
-
大阪のMが田中角栄に“共感”した嫌戦意識
田中角栄の後援会機関紙(「越山」)の投稿欄は、ロッキード事件で苦境に追い込まれている田中への熱烈な支援で満ちている。田中支持の岩盤ともいうべき庶民の意識はいかなる構造になっているのか。取材で私が出会…
-
ニセ結核患者を演じた皇軍兵士ゆえに見える田中角栄
「ニセの結核患者を見抜くには、大体の医者なら簡単なことなんだろうな。軍内にはそんな兵士はかなりいたはずだし──」 とMは言った後に、巡回でやってくる医師がどういう経歴なのかを探るのが「事前調査…
-
軍内の手続き、しきたり、規則の内実…「この話は初めて話す」とMは何度も言葉を挟んだ
Mの証言を、改めて私の取材ノートからまとめるが、「この話は初めて話す」と彼が何度か言葉を挟んだことが、印象深かった。 例えばソ満国境などの守備隊には、月に1度か2度、軍医のチームが健康状態を…
-
Mが田中角栄から感じとった「こんな戦争で死んでたまるか」という心理
合法的に軍内から抜け出す方法について、Mは声を潜めて語った。私はこの時まで、さらにそれ以降もこのような方法を詳細に語ったケースはほとんど聞いたことがない。それだけに衝撃を受けつつ、今も記憶の底に焼き…
-
戦場を知る大阪の中小企業経営者Mは、なぜ田中角栄を支持したのか
田中角栄批判が渦巻いている頃(昭和58年前半期)、彼の後援会機関紙「越山」の投稿欄で、田中を激励している庶民の姿を取材した。その体験を語ることが、図らずも昭和史の断面を浮き彫りにすることにもなる。熱…
-
田中角栄礼賛論の深層と戦争
あえて「言葉を失う」という表現を用いたが、ほぼ田中角栄と同年齢の「戦場体験者」には2つのタイプがあったからだ。むろん表向きの会話を交わしているだけでは、彼らも心を開かない。しかし私は東條英機の評伝を…
-
田中角栄を応援する庶民を取材し、私は言葉を失った
田中角栄が東京地検特捜部に逮捕されたのが、昭和51(1976)年7月27日であった。この日の午前5時半にロッキード事件捜査本部の検事らに任意出頭を求められ、東京地検での取り調べの後、外為法違反で身柄…
-
田中角栄の評伝をどのような視点で書くのか。私は気づいた
昭和という時代には32人の首相が誕生した。軍事と非軍事の時代、あるいは神権化した天皇と人間天皇の時代、さらには臣民と市民の時代、昭和20(1945)年8月を境に国家の存在も相反する理念の元で動いた。…
-
海千山千の吉田茂は、はたしてすべてを知っていたのか
昭和20(1945)年8月15日、日本の敗戦の日、吉田茂の別邸に入り込んだ工作員Aは、組織の解体の後、故郷の姫路に帰った。すると9月に吉田から、一度訪ねてくるようにとの手紙が届いた。 以下、…
-
陸軍中野学校出の工作員Aは吉田茂の前で涙した
吉田茂の別邸に書生として入り込んだAに対して、吉田は釈放されてから改めてよく観察したようだ。吉田の著作、証言、さらには自らの周辺雑記などを丹念に見ても、Aのことは一行も一言も残していない。吉田は60…
-
吉田茂は和平主義者として逮捕 政治家生活で最大の勲章になった
東部憲兵隊司令官の大谷敬二郎と吉田茂の対決は、とにかく吉田を講和を目指す和平主義者とし、逮捕拘束した上で軍内の本土決戦派優位の体制を作ろうとしていた。しかし吉田も簡単にはその手に乗らなかった。たとえ…
-
追いつめられていた軍部の本土決戦派と吉田茂の攻防
吉田茂の逮捕後の取り調べについて、吉田自身が戦後に著した「回想十年」などに詳しく書かれているので、裏話として語り尽くすほどの内容はない。だが近衛上奏文の内容を取り調べにあたった東京憲兵隊はしきりに知…
-
帝国陸軍の意識は憲兵隊と中野学校では異なった
昭和20(1945)年4月15日の早朝である。憲兵隊の一行が大磯の吉田茂邸の玄関に入っていった。むろんAには事前情報など知らせるわけはない。それにAは憲兵の指揮下にあるわけではない。陸軍省兵務局の工…
-
24歳の陸軍スパイと吉田茂に迫るXデー…大磯に工作班のほとんどが集まった
近衛上奏文の内容は、永田町のお手伝いのルートから漏れたらしいが、Aの手記を読むと天皇が重臣から話を聞きたいと言い出してから、陸軍首脳の焦りは高まった。なんとしても天皇に講和を説くような事態になったら…
-
大磯・吉田茂邸にもぐりこんだ陸軍情報工作員の詫びと告白
大磯の吉田茂邸に書生として潜り込んだ情報工作員をAとして書いていくが、その入り込み方の手口も明かしている。Aは戦後になって吉田に申し訳なさを感じ、手記を残しておくことにしたようだ。同時に吉田に自分が…
-
和平主義者・吉田茂を徹底的に監視した東條英機首相のやり口
近衛上奏文の内容は、実は陸軍側に漏れていた。近衛が、天皇に会う前日に、吉田の自宅(東京・永田町。他に大磯に別邸があり、所用がない時は大磯で過ごした)を変装姿で夜に訪ねている。2人とも陸軍の憲兵隊から…
-
吉田茂はなぜ近衛上奏文で共産主義を利用したのか
近衛上奏文の前半は論理的に日本、ドイツの劣勢な戦況が語られている。いわば戦争の決着はついているという意味になる。ところが後半になると感情的に共産主義の陸軍内部への伸長の警告となる。次のような一節もあ…