保阪正康 日本史縦横無尽
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明治44年1月24日、堺利彦は幸徳秋水らの死刑執行を確信した
司法当局が処刑時の様子を詳細に報道させたのは、国家に叛く思想を持つと、このような報復を受けるのだという意思を国民に知らせるためであった。そもそも大逆事件と称したのも、12人の死刑囚の全てに、あたかも…
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新聞が報じた社会主義者・幸徳秋水「死刑執行」の一部始終
24人の裁判での内容やその容疑理由などから判決に至る内幕などは、検事総長から長文の文書で発表され、それを各新聞が取り上げている。むろんこれは国家権力の都合のいいようにつくられたドラマのようなものとも…
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新聞に躍った「逆徒遂に絞首台の露と消ゆ」の見出し
大審院での24人の死刑判決は、この頃の新聞に大きく取り上げられた。それまで法廷の様子などは一切報じられなかったが故に、まさに「記事解禁」の様相を呈する状態になった。 しかも翌日には「天皇陛下…
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検挙から判決までに8カ月足らず…24人に死刑判決が下った暗黒裁判
幸徳秋水らのこの事件の裁判は非公開で行われ、被告側の証人は全く呼ばれず、大審院での1審即決の裁判であった。弁護人である今村力三郎はのちに次のように証言している。 「余は今日に至るも該判決に心服…
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天皇暗殺を考えたのはわずか3、4人…幸徳秋水は関わりを避けていた
国家権力を暴力という視点で見れば、この事件は2つの特徴を持っている。この2つを初めに語っておきたい。近代史の根幹に関わるからだ。 一つは、国家権力は自らに不都合な思想、哲学、価値規範などを弾…
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桂首相や山県有朋らが壮大なドラマをでっち上げて、社会主義者を追い詰めた
大逆事件は当初は7人が検挙されたに過ぎなかったのだが、それが警察、司法当局によって大掛かりな筋立てに変わり、全国で一斉に社会主義者や無政府主義者の検挙に至った。当局は明治43(1910)年6月5日の…
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もっとも熱心に尋問された幸徳秋水 天皇暗殺疑惑で26人が起訴された暗黒裁判
この大逆事件は、近代史の中で国家権力が弾圧の手法を確立した事件でもあった。壮大な虚構のドラマを作り、その筋立てに人物を当てはめるという手法でもあった。 このようなフレームアップ事件は、近代史…
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天皇に爆裂弾を投げるという直接行動で自由国家をつくるという宮下太吉の政治的信念
歴史的には大逆事件と言われているが、実際にどういう事件だったのか、その大まかな輪郭を説明しておかねばならない。発端は職工の宮下太吉が自ら製造した爆裂弾を手にして始まったと言っていいであろう。これを天…
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“無政府主義者”の宮下太吉 明治42年11月、爆弾の製造に成功した
明治40年代の日本は、日露戦争による戦争疲れのような状況でもあった。青年層には賭博への関心を深めたり、遊興にうつつを抜かす者も増えた。さらに退嬰的な風潮に身を任せ、挙げ句の果てに自決への道を歩む者も…
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帰国した幸徳秋水は後難を恐れて中江兆民の遺族との接触を絶った
幸徳秋水が直接行動を志向するようになったのは、アメリカ旅行を終えて帰国してからというのが、歴史的見方であった。特に明治天皇への誹謗中傷は山県有朋らの元老を怒らせ、司法界などの長州閥人脈が幸徳に狙いを…
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山県有朋は天皇の権力と権威を使って社会主義思想を抑え込もうとした
西園寺公望内閣に代わって登場したのは、桂太郎内閣である。むろんこの内閣は、山県有朋の意向に沿っていた。長州閥の内閣で、体制破壊をもくろむ社会主義者、無政府主義者を徹底弾圧しようというのであった。山県…
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赤旗事件逮捕者への暴行 南京虫で錯乱状態に追い込まれた房内の拷問
東京二六新聞が報じた「赤旗事件」の逮捕者に加えられた暴行の数々は、想像を絶する内容だったようである。殴る蹴るなどの暴力は当たり前というわけだが、さらにこの新聞はこういう形の拷問もあったといって、その…
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赤旗事件で新聞が報じた「拷問されて悶絶す」 過酷な取り調べがかき立てた復讐心
赤旗事件は、その内容ではそれほど大きな事件ではないとも言えるだろう。だがこの事件が歴史に残ることになったのは、その後の大逆事件の伏線になったが故でもあった。しかもこの事件で逮捕された14人への取り調…
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赤旗事件で逮捕された14人は全員起訴。大杉栄は懲役2年半だった
山口義三の出獄を祝っての歓迎会で閉会を迎えた頃、出席していた左派(直接行動を辞さないという一派)のメンバーが、「無政府共産」「無政府」の文字を縫い付けた赤旗を持ち出して街頭デモの準備を始めた。むろん…
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社会主義者・山口義三の出獄歓迎会で起きた「赤旗事件」
平民新聞は休刊に至ったが、この時から2、3年後、社会主義者、無政府主義者などが絡む事件が起きている。それは国家権力の側が日露戦争後の社会情勢をいかに不安に思っていたかの表れでもあった。日露戦争そのも…
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各新聞のこの体たらく、果たして「彼等、社会の木鐸なるか」と鋭く批判
平民新聞は明治中期の日本社会をかなり正確に伝えている。改めて個々の報道内容を見ていく限り、日本の知識人は意外なほど幅広い知識を求めていて、外国の文献なども意欲的に読んでいたことが明らかになる。逆に平…
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平民新聞の論調 徳富蘇峰が論じた「黄禍論」批判
平民新聞は、一般新聞にはない論調を読者に提示していた。前回説明した無抵抗主義などがその一例である。もうひとつ顕著なのが「黄禍論」についての日本側の反応を批判していることだ。この論点がなかなか興味深い…
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源は明治37年の平民新聞から…「無抵抗主義」を巡る大きな相違点
非戦論は日露戦争の開始前からある程度の勢いで語られていた。しかし日露戦争が決まりきった公式の非戦論を超えて2つの新しい流れをつくった。この流れは大正、昭和にもそのままつながっていた。そのひとつが社会…
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平民新聞が援護した内村鑑三の非戦論 頑迷な批判に総力をあげて反論
平民新聞の説く非戦論と、内村鑑三の主張する非戦論には、どのような違いがあるのか。共に日露戦争に反対して「萬朝報」を退社したわけだが、内村は幸徳秋水や堺利彦の平民新聞の論調とは一線を引き、外国に向けて…
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平民新聞が哲学者・井上哲次郎を徹底批判した「3つの論点」
平民社同人の非戦論、反戦論に対して、最も激しく攻撃したのは2つのタイプに代表される論者であった。ひとつは国粋主義的志向の強い学者、ジャーナリストたちである。もうひとつは宗教家を中心とするグループであ…