お与津御寮人(1)単なる宮中の恋愛沙汰では済まなかった
お与津御寮人は正二位権大納言・四辻公遠の娘。父の官職から大納言典侍と呼ばれました。後水尾天皇と彼女が結ばれ、子をなしたことは、朝廷の慣例からすれば特別なことではありません。
ところが、娘・和子の入内を計画していた2代将軍・徳川秀忠と御台所のお江の方は、これを知って激怒しました。お与津さんの振る舞いを不道徳として罪を追及したのです。
後水尾天皇の側近であった権大納言・万里小路充房は、監督不行き届きとして丹波篠山藩に配流。お与津さんの実兄・四辻季継も豊後に配流され、さらに天皇側近の貴族たちが謹慎処分となりました。
後水尾天皇は憤慨し、退位しようとします。ところが、幕府の使者・藤堂高虎が天皇に迫り、与津子の追放・出家と和子の入内を求めました。高虎は戦場で多くの傷を負った歴戦の武将として知られています。天皇と幕府との交渉に、こうした武将が使者として乗り込んできたわけです。
和子は秀忠とお江の方の娘で、入内後は後水尾天皇の中宮となり、東福門院と称されます。徳川将軍家にとって、この婚姻が朝廷との関係を固めるうえでどれほど重要だったかがわかります。

















