お与津御寮人(1)単なる宮中の恋愛沙汰では済まなかった
元和6(1620)年6月18日、和子の入内は実現します。秀忠はその後、処罰された貴族たちの赦免と復職を天皇に求め、大赦が行われました。
お与津御寮人をめぐる問題は、単なる宮中の恋愛沙汰ではありませんでした。和子の入内という徳川家の重要政策と結びついたために、天皇の私的な領域にまで幕府が踏み込む事件になったのでした。
お与津さんは朝廷を追放されて出家し、嵯峨に隠棲しました。彼女が産んだ皇子・賀茂宮は元和8(1622)年に死去。元和5年6月に生まれた文智女王は鷹司教平に嫁ぎましたが、のちに離縁して出家し、大和に隠棲しました。
この事件をどう考えればよいでしょう。現代の感覚だけで見てはいけません。当時の宮中では、典侍が天皇との間に皇子・皇女をもうけること自体は珍しくありません。それなのに幕府は、お与津御寮人を追放しただけでなく、天皇側近の公家たちまで処罰しました。


















