本塁打王を取ったオフ、年を越したら得体の知れない不安と重圧に襲われた
1996年オフの契約更改は年俸1億2000万円でサイン。バラ色のオフを迎えた俺は、名古屋に加えて東京のテレビ局に引っ張りダコの日々だった。
「プロ野球選手というのは、活躍してスターになったら積極的にメディアに出ていくべきだ」
というのが俺の考え。テレビに出まくっていると、「おまえ、そんなもんばっかり出とらんと、もっと練習せい」と言ってくる指導者やOBがいる。星野仙一監督もそういうタイプだった。でも、俺はその逆。本業の負担にならん範囲で、たくさん露出して大いに発信した方がいいと思っていた。中日というローカル球団にいたから、なおさらだったかもしれない。
一方、年が明けると、とてつもないプレッシャーと闘っていた。本塁打王として注目される中、最低でも96年の成績をキープしなければならないと思っていた。97年1月は、「そろそろ動かなければ」「どうやって始動しよう」ということで頭がいっぱいだったが、考えても答えは出なかった。俺自身、最もやみくもにバットを振ったのは97年春のキャンプだった気がする。


















