山﨑武司 これが俺の生きる道
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巨人戦の殊勲打で星野監督から"出どころ不明"の100万円、そのぶん罰金もたくさん取られた
「打倒巨人」をテーマに掲げていた星野仙一監督。その熱量の高さは「賞金」にも表れていた。 当時、試合での活躍に応じて、監督賞が出た。ペナントレースを左右する大一番になるとお金を弾んだりするものだ…
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星野監督の鉄拳は「戦略」だった…楽天時代の俺は分かった上であえて皆の前で怒られていた
プロ野球生活の27年間を振り返っても、「闘将」と呼ばれた星野仙一監督は派手なタイプの指揮官だった。 負ければベンチを蹴り上げ、勝っても納得がいかなければ選手を叱った。それを一種のパフォーマン…
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「俺に飲めっていうんか!」 星野監督はビンを叩きつけて粉砕…打倒巨人の執念は凄まじかった
血の気の多かった星野仙一監督が最もヒートアップしたのが巨人戦だった。「打倒巨人」のエネルギーは凄まじく、巨人戦の前だけは移動休みがなかった。 たとえば、火曜日からの3連戦の場合、前日の月曜日…
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気温50度の灼熱キャンプなのに「寒い」…中村武志さんは「死ぬかもしれん」と言った
俺が若手の頃、星野仙一監督から最も「愛のムチ」を受けていたのは捕手の中村武志さんだったと思う。2年先輩で、俺が入団したときはすでに正捕手候補として一軍でプレーしていた。 同じ捕手では太刀打ち…
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今なら炎上だけじゃ収まらない…星野監督は正捕手・中村武志さんを日常的にボコボコに
俺が長く仕えた星野仙一監督はまさに「闘将」だった。試合中、劣勢の展開になるとベンチを蹴飛ばし、選手を怒鳴りつける。試合に勝っても、選手が不甲斐ないプレーをすれば、監督室に呼び出し、鉄拳が飛ぶのは日常…
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星野監督は中村武志さんを張り倒した直後、3ランを打った隣の俺にも鉄拳制裁…メチャクチャ痛かった
一軍デビューを果たしたプロ3年目は20試合に出場したものの、本塁打はゼロ。しかも、その数少ない一軍戦で屈辱を味わった。 1989年10月15日の広島戦(広島市民球場)で上原晃(沖縄水産高→8…
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オレが「記念品」にまったく頓着しないワケ…初ヒット、通算350号の記念球も誰かにあげた
プロ3年目の1989年9月10日、初の一軍昇格から3試合目のヤクルト戦で、ようやく初安打を打つことができた。 ホームのナゴヤ球場。4点を追いかける九回裏に代打で打席に立ち、左前にポテンヒット…
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1000円の小遣いでも嬉しかったほど安月給でも、「カネはない」など口が裂けても言えなかった
プロ3年目で一軍初出場となった1989年9月7日。初打席の空振り三振で味わった一軍と二軍の実力差。「上」と「下」の違いは待遇面にも及ぶ。 星野仙一監督はあえて、一、二軍に大きな格差をつけた。…
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広島市民球場でプロ初出場も…一軍との大きなレベル差を痛感した
初めて一軍に昇格した1989年9月7日にプロ初出場を果たした。 舞台は広島市民球場。九回表、同期の遠田誠治さん(85年6位指名、新日本製鉄室蘭を経て翌86年オフに入団)の代打としてバッターボ…
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理由はもちろん星野監督…一軍昇格の知らせに「うわ、最悪だ」が先立った
「一軍」という場所はプロ3年目まで縁がなかった。2年目の1988年にはチームがリーグ優勝したけれど、「まったくの他人事」という感覚。優勝した実感がないどころか、自分にとっては何の関係もない出来事のひと…
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キャッスルで結婚式を挙げるはずが…「派閥の親分」の一言で断念、ヒルトンになった
かつて中日には「派閥」があった。俺が「親分」として慕っていたのは沢村賞投手の小松辰雄さんだ。 プロ2年目で二軍暮らしだった俺は、故障で二軍調整中だった小松さんからキャッチボールの相手を頼まれ…
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「掟」を破ってナゴヤ球場に外車で乗りつけたら「小松の親分」にコッテリ絞られた
俺が本格的に寮生活を始めたのはプロ2年目から。というのも、ルーキーイヤーは米国とドミニカ共和国の野球留学に費やし、ほとんど日本にいなかったからだ。 最初は名古屋市中村区にあった寮に入った。…
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地獄の浜松キャンプでは自分の脇腹負傷にガッツポーズ、束の間の休息が本当に嬉しかった
1987年の秋に経験した地獄の浜松キャンプでは、「入団5年目以内の選手は全員、球場から宿舎まで走って帰る」というルールがあった。先輩はバスに乗れたが、若手はバスを禁じられたのだ。 浜松市営球…
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さらなる地獄だったあの日々、痛みを訴えた脇の下のビー玉サイズのシコリをギュッと握りつぶされて…
1987年秋、ドミニカ共和国への留学を終え、ようやく日本へ帰国した。ルーキーイヤーのすべてを米国とドミニカで過ごし、二軍の試合に一度も出ないままプロ1年目のシーズンが終わった。 帰国してまも…
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“島流し”されたドミニカで苦労した言葉と食事…寮はジャングルの中にポツンとあった
プロ1年目の1987年、野球留学先のドジャース傘下のルーキーリーグで不甲斐ない成績に終わり、ドミニカ共和国へ“島流し”されることになった。日本に帰国することなく、直接、中南米の国へと渡った。 …
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プロ1年目ドジャース野球留学の内幕…現地生活を大いに満喫した一方、試合には全く出られなかった
1987年、中日に入団してすぐの春季キャンプ中に星野仙一監督から命じられた米国への野球留学。滞在先のフロリダで球団が借りてくれた立派なコンドミニアムにはキッチンもついていたが、食事はもっぱら外食。一…
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米国留学中に大事件!俺と荒川哲男のロッカーは鍵が壊され中身を丸ごと盗まれた
プロ入り直後の1987年3月。18歳でいきなり米国へ飛ばされた俺は、右も左も分からないまま異国の地で毎日もがいていた。 言葉に関しては、グラウンド内ではドジャース球団会長補佐のアイク生原さん…
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突然告げられた強制米留学、現地では毎日ドミニカ人全員に飯を奢り続け、球団の領収書を切った
1年目の春季キャンプ中盤、星野仙一監督に呼び出された。宿舎の監督室に集められたのは、俺とドラフト4位で同期入団の荒川哲男、一軍投手コーチに昇格したばかりの高橋三千丈さん、チームマネジャーの福田功さん…
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嫌というほど味わった練習地獄と主力との待遇格差…俺の初キャンプは毎日がサバイバルだった
プロ1年目の1987年、沖縄・石川の一軍キャンプに同行した。就任したばかりの星野仙一監督が抜擢してくれた。落合博満さんの部屋子になり、約1カ月を過ごしたのだが、練習の内容はというと……まったくといっ…
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落合博満さんと初キャンプでまさかの相部屋、すこぶる憂鬱だった1カ月間の一部始終
入団1年目、沖縄・石川の一軍キャンプメンバーに選ばれた。高卒ルーキーは5年近く二軍で下積みするのが当たり前だった時代。星野仙一監督の大きな期待を感じた。それは宿舎の部屋割りにも表れていた。なんと、「…
