「家を建てるとトレードされる」「4番は放出される」中日の不吉な2つのジンクスに俺は…
2001年オフ、悩みに悩み抜いて国内FA権を行使した。中日での立場に不安を抱き、横浜から熱心な誘いを受けて移籍へ大きく天秤が傾いた。
しかし、現役時代に通算284勝した大投手で、同年オフに就任した山田久志監督から「一緒に戦おう」と頭を下げられ、残留を決意。10月末のFA宣言から約3週間後の11月21日、横浜に断りを入れた。その日に残留会見を開き、俺はこう言った。
「カネでは買えないものが名古屋にはある。お世話になった人たちと別れるのもつらい。22番のユニホームが俺より似合うヤツはおらん。自分がプレーできるうちに(22番を)他の選手が身につけると思うと、寂しくてたまりませんでした」
会見の数日前、山田監督に電話で残留の意思を伝えると、「また一緒に頑張ろうな」と言われ、心機一転、また中日で頑張ろうと思えた。気持ちは晴れやかだった。
ようやく長いFA交渉が決着。再契約金1億円を一括でもらい、3年契約も手にした。そこで東海市に新居を建てることに。土地から探し、2階建て6LDKを新築。1年後に完成する予定だった。


















