査定担当から浴びせられた辛辣な低評価の数々…球団はオレを必要としているのかと疑念を抱くようになった
アップシューズで打席に立った2000年。ヒットを量産できたのは、ケガの影響もあった。前年の1999年、リーグ優勝を決めた9月30日のヤクルト戦で骨折した左手首がまだ完治しておらず、痛みも残っていた。キャンプのときはバットを思い切り振れず、シーズンに入っても小手先でちょこちょこ合わせながら打つことに。余計な力みがなくなったことで、思いのほか結果が出た。
でも次のシーズンは即、スパイクを履いた。大変だったのもあるが、他にもうひとつ理由がある。00年オフ、1回目の契約更改で現状維持を提示された。前年の99年は28本塁打で、打率.246。00年は18本塁打ながら打率.311をマークした。3割超えで現状維持? 納得がいかなかったが、査定担当に「だっておまえ、ホームラン全然打ってねえじゃねえか」と斬り捨てられた。
やっぱり求められているところは本塁打なんだ──。そう思って、すぐにスパイクを履くことにしたのだ。
俺の通算本塁打数は403本。400発以上打っている打者は、歴代で20人しかいない。でも、「本当に俺って400本以上も打っているのか?」という感覚になることがある。というのも、現役27年間のうち、シーズンで30本以上打てたのは3回だけ(96、07、09年)。27本とか28本とか、あと一歩で30の大台に乗らない年が何度もあった。いまだに「400本塁打達成者」が自分にピンとこないのは、契約交渉の席で浴びせられてきた辛辣な言葉の数々のせいかもしれない。


















