星野仙一
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バスタオル一枚の星野監督は鬼の形相でダッシュ、そのまま俺は飛び蹴りを食らった
1996年、プロ入りして初めて、タイトル争いをした。本塁打王を射程圏に捉えたシーズン終盤、ある騒動が勃発した。 タイトル争いは巨人の松井秀喜、大豊泰昭さん、俺の三つ巴。俺が39本、松井が38本、大豊さんが37本とした10月8...
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星野監督&張本勲さんからの助言に共通した「もっと自分を疑え」。だから俺は調子が良いときでも…
1996年5月1日、巨人のガルベスとの大立ち回りをして一躍話題になったものの、なかなかレギュラーに定着できなかった。 左打ちの愛甲猛さん(95年オフにロッテから無償トレードで移籍)との併用が続き、相手投手の左右や相性でスタメ...
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星野監督の意外な優しさに驚いた。開幕直前「脇腹痛でバットを振れない」と報告したら…
1995年オフ、星野仙一監督の指令で、22キロの大減量に成功した。春季キャンプの初日に星野監督の前で体重計に乗り、88キロで計量をパス。無事に2月1日のキャンプインを迎えることができた。 2カ月間の過酷な減量の反動で、キャン...
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そうだ、風邪をひけばいいんだ!減量に行き詰まった末、裸同然で極寒の庭へ飛び出した
1995年の秋季キャンプ終盤、星野仙一監督から20キロの減量を命じられた。走り込み、サウナ、食事制限と過酷なメニューをこなし、15キロ減。2月1日の春季キャンプインまで2週間を切り、あと5キロが遠かった。 そんな中、「迷案」...
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カムバック星野監督の“2カ月20kg”の無茶ぶりに「嫌です」なんて言えるはずもなく…
「今何キロあるんや?」 1995年オフ、5年ぶりに星野仙一監督が復帰した。2度目の就任だ。秋季キャンプ終盤、監督室に呼び出されるなり、こう聞かれた。 俺が「110キロくらいです」と答えると、監督は「そうか。じゃあ20や...
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星野監督の退任にガッツポーズも…あまりに早すぎる星野監督の現場復帰に頭を抱えた
これまで星野仙一監督の型破りな言動を書いてきたが、俺も破天荒にならなければ、ここまで生き残ることはできなかったかもしれない。 俺が一軍に定着できたのは1995年の9年目。これだけの遅咲きで、8年間も二軍におったら普通はクビに...
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叱責、鉄拳、罰金…試練の日々で星野監督よりも「怖かった人」
星野仙一監督時代の叱責、鉄拳、罰金……。試練の日々で救いだったのは、名参謀・島野育夫さんの存在だった。 星野監督の1次(1987~91年)、2次政権(96~2001年)でヘッドコーチなどを歴任した闘将の右腕だ。 俺が...
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敵軍・大野豊さんの“余計な一言”で理不尽すぎる罰金「7ケタ」のとばっちり
罰金の話の続きをしよう。 俺が食らった最高額は100万円。1回目は3年連続で春季キャンプ初日に風邪をひいたとき。2回目は1996年6月15日、広島戦(広島市民球場)でのことだった。 96年はシーズン序盤から調子が良か...
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巨人戦の殊勲打で星野監督から"出どころ不明"の100万円、そのぶん罰金もたくさん取られた
「打倒巨人」をテーマに掲げていた星野仙一監督。その熱量の高さは「賞金」にも表れていた。 当時、試合での活躍に応じて、監督賞が出た。ペナントレースを左右する大一番になるとお金を弾んだりするものだが、星野監督の場合は巨人戦がそうだ...
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星野監督の鉄拳は「戦略」だった…楽天時代の俺は分かった上であえて皆の前で怒られていた
プロ野球生活の27年間を振り返っても、「闘将」と呼ばれた星野仙一監督は派手なタイプの指揮官だった。 負ければベンチを蹴り上げ、勝っても納得がいかなければ選手を叱った。それを一種のパフォーマンスと揶揄する人もいるが、監督はパフ...
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「俺に飲めっていうんか!」 星野監督はビンを叩きつけて粉砕…打倒巨人の執念は凄まじかった
血の気の多かった星野仙一監督が最もヒートアップしたのが巨人戦だった。「打倒巨人」のエネルギーは凄まじく、巨人戦の前だけは移動休みがなかった。 たとえば、火曜日からの3連戦の場合、前日の月曜日は「移動日」として練習が休みになる...
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気温50度の灼熱キャンプなのに「寒い」…中村武志さんは「死ぬかもしれん」と言った
俺が若手の頃、星野仙一監督から最も「愛のムチ」を受けていたのは捕手の中村武志さんだったと思う。2年先輩で、俺が入団したときはすでに正捕手候補として一軍でプレーしていた。 同じ捕手では太刀打ちできない存在。ライバルという立場に...
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今なら炎上だけじゃ収まらない…星野監督は正捕手・中村武志さんを日常的にボコボコに
俺が長く仕えた星野仙一監督はまさに「闘将」だった。試合中、劣勢の展開になるとベンチを蹴飛ばし、選手を怒鳴りつける。試合に勝っても、選手が不甲斐ないプレーをすれば、監督室に呼び出し、鉄拳が飛ぶのは日常茶飯事だった。 今の時代で...
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星野監督は中村武志さんを張り倒した直後、3ランを打った隣の俺にも鉄拳制裁…メチャクチャ痛かった
一軍デビューを果たしたプロ3年目は20試合に出場したものの、本塁打はゼロ。しかも、その数少ない一軍戦で屈辱を味わった。 1989年10月15日の広島戦(広島市民球場)で上原晃(沖縄水産高→87年ドラフト3位)と先発バッテリー...
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理由はもちろん星野監督…一軍昇格の知らせに「うわ、最悪だ」が先立った
「一軍」という場所はプロ3年目まで縁がなかった。2年目の1988年にはチームがリーグ優勝したけれど、「まったくの他人事」という感覚。優勝した実感がないどころか、自分にとっては何の関係もない出来事のひとつでしかなかった。 10月...
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地獄の浜松キャンプでは自分の脇腹負傷にガッツポーズ、束の間の休息が本当に嬉しかった
1987年の秋に経験した地獄の浜松キャンプでは、「入団5年目以内の選手は全員、球場から宿舎まで走って帰る」というルールがあった。先輩はバスに乗れたが、若手はバスを禁じられたのだ。 浜松市営球場から宿舎のグランドホテル浜松まで...
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プロ1年目ドジャース野球留学の内幕…現地生活を大いに満喫した一方、試合には全く出られなかった
1987年、中日に入団してすぐの春季キャンプ中に星野仙一監督から命じられた米国への野球留学。滞在先のフロリダで球団が借りてくれた立派なコンドミニアムにはキッチンもついていたが、食事はもっぱら外食。一緒に留学していた荒川哲男(ドラフト...
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突然告げられた強制米留学、現地では毎日ドミニカ人全員に飯を奢り続け、球団の領収書を切った
1年目の春季キャンプ中盤、星野仙一監督に呼び出された。宿舎の監督室に集められたのは、俺とドラフト4位で同期入団の荒川哲男、一軍投手コーチに昇格したばかりの高橋三千丈さん、チームマネジャーの福田功さん。星野監督はひと言、こう告げた。 ...
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立浪和義の「白米禁止令」は星野仙一イズムの継承だろう…かつては自身も大目玉を食らっていた
立浪和義が監督を務めた2022年から24年までの3年間を振り返ると、チームに活気や明るさが欠けていたといわざるを得ない。 23年8月にはバンテリンドームの食堂から白米が消えたと騒ぎになった。食堂に貼られた紙には、「お米」の部...
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オレが立浪和義にコンプレックスを抱いた深層…現役時代は一度も食事したことがなかった
スター選手だった立浪和義は、星野仙一監督から特別扱いを受けていた。監督自身がクジで引き当てたこともあり、お気に入りの選手だった。俺への接し方とは、態度や言葉の言い回し、全てが違った。 星野監督2次政権時の1999年の夏のこと...
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「(来季の去就は)マコト以外は全員白紙や!」星野監督が全員の前で放った言葉を意気に感じた
星野仙一監督就任1年目の2002年。僕は野球人生をかけたオープン戦初打席でサヨナラ打を放った流れをそのままに、開幕後はレギュラーとして打率.317、15本塁打、56打点の成績を残した。 ただ、シーズン中盤まで首位争いをしてい...
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星野監督1年目…周囲から浮いても関係ない「今岡は変わった」と思わせたくてアップから全力だった
「好きなようにさしたるから、やってみろ」 春のキャンプイン直前、就任1年目の星野仙一監督に言われた言葉は、野村克也前監督のID野球にウンザリしていた僕にとってうれしいものだった。ただ、同時に恐怖というか、背筋に衝撃が走るもので...
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【新連載】星野監督は講演会でいきなり「おまえはクソ生意気らしいから野村さんと全然あかんかったんやろ!」
聴衆がどっと沸いた。 2001年12月に阪神監督に就任したばかりの星野仙一さんの講演会に、僕と数人の阪神の選手が呼ばれた。そこで壇上の星野監督が突然、こう言ったのだ。 「今岡、おまえはクソ生意気らしいな。だから、野村さ...
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中日・福留孝介が引退決断 元コーチ仁村薫氏が明かす、亡き星野仙一氏と立浪和義監督との縁
8日、現役最年長の中日・福留孝介(45)が今季限りでの引退を表明した。1998年ドラフト逆指名で中日へ入団。メジャーや阪神でもプレー、プロ24年間で日米通算2450安打を放った。 その福留と計8年間(99~2002年、04~...
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デーブ大久保さん プロ野球経験者初の球団オーナーになりたい、有言実行を目指す!
西武と巨人で活躍後、東北楽天の監督も務めた大久保博元さん。「デーブ」の愛称で今なお人気だが、死ぬまでにやりたいことはプロ野球のオーナーというデカい夢。野球経験者がオーナーになることの重要性を熱く語った。 ◇ ◇ ◇ ...
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星野仙一さんが阪神を「特殊な球団」と言った意味 二軍選手までチヤホヤされる
オリックスのコーチを辞した2003年、阪神の岡田彰布監督から「二軍の打撃コーチをやってくれませんか?」と打診があった。縁もゆかりもない阪神に私のことを推薦してくれたのは、18年ぶりにリーグ優勝に導きながら体調の不安を理由に勇退したば...
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岡田彰布さんから阪神二軍コーチの打診 中日時代の恩人・星野仙一さんが推薦してくれた
1993年の日本シリーズで西武は3勝4敗でヤクルトに敗れ、4年連続の日本一を逃した。直後に私は球団幹部に呼ばれ、こう通告された。 「来年は契約しません。考えといてください」 戦力外通告なのに「考えといて」とは、選手側に...
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星野監督から湯治先の温泉宿に「トレード決まったぞ」と電話がかかってきた
中日が6年ぶり4度目のリーグ優勝を果たした1988年オフ、長野の昼神温泉で湯治をしていた私に星野監督から電話がかかってきた。 「トレードが決まったぞ」 「どこですか?」 「巨人の西本(聖)とや」 私と巨人・...
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「おまえはキャッチャーはクビや!」星野監督に外野コンバートを通告された
浜松でのヤクルト戦で、先発の鈴木孝政さんとバッテリーを組んでいた私は、直球が走っていたにもかかわらず、投手コーチに言われるがままに変化球を要求。荒井幸雄にチェンジアップを本塁打された。 指示通りなのに、ベンチでそのコーチに「...
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1点を追う試合終盤に二塁で憤死…星野監督は鬼の形相で「何で無理するんや!」と
中日・星野仙一監督の就任1年目、1987年の巨人戦だった。1点ビハインドの試合終盤に、私は右翼線にヒットを放った。ライトの仁村薫がファンブルしたため、思い切って二塁へ進んだら、好返球で間一髪タッチアウト。少しでも送球がそれればセーフ...
