死球をぶつけたのに逆ギレ! 星野仙一さんが“闘将”たるゆえん…星野政権下では生きた心地がしなかった
日刊ゲンダイではこれまで多くの球界OB、関係者による回顧録や交遊録を連載してきた。当事者だからこそ語れる、あの大物選手、有名選手の知られざる素顔や人となり。当時の空気感や人間関係──。
今回はあの故・星野仙一さんについて綴られた、中尾孝義氏による「革命捕手が見たプロ野球」(第3回=2022年)を再公開。年齢、肩書などは当時のまま。
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「おい中尾、オレが首を振っているのに、それでも同じサインを出すのは、おまえだけや」
現役晩年の星野仙一さんの言葉である。
私はアマチュア時代に「試合中は捕手が監督だ」と教えられた。中日に入って1年目からマスクをかぶらせてもらい、気を付けていたのは、どんな場面でも投手が誰でも、捕手である私が自信を持ってサインを出さないと、伝わらないということだ。それが、大エースの星野さんであってもである。
星野さんはユニホームを着ると戦闘態勢に入る。聞いた話では、山本浩二さん(広島)だったか、田淵幸一さん(阪神)だったか、頭にデッドボールを当てたことがあるそうだ。すると、星野さんはマウンドで仁王立ち。謝るどころか、こう言い放ったというのだ。
「こら、ちゃんとよけんかい!」
ぶつけておいて逆に怒っている。これが「闘将」と言われるゆえんである。
星野さんの現役最後の2年間、バッテリーを組ませてもらい、ずいぶんかわいがってもらった。
広島遠征時には行きつけの焼き肉店に誘われ、4日間の遠征期間中、3日は焼き肉ということもザラだった。野球教室を一緒にやることも多かった。
私が(最初の)結婚をする際には、ちょうど現役を引退した星野さんの自宅に挨拶に行き、仲人をお願いすると、快く引き受けてくれた。結局、離婚してしまったが……。
月曜日などの休日にはゴルフに誘ってもらった。星野さんの腕前はパープレーまではいかないほどで「80」前後。ドライバーショットは300ヤード近くをかっ飛ばした。私のベストスコアは阪神スカウト時代に出した「66」だが、この頃は「100」を切るのがやっと。星野さんにはとてもかなわなかった。
そんな星野さんが1986年オフに監督に就任すると、「これから戦うんだから、そんなもの、しなくていい」と相手チームの選手や関係者など「相手の選手と友達になると、厳しいところに投げられなくなってしまう。だから、特に投手は相手の野手と友達にはなるな」といつも言っていた。
それまでの練習は、ある程度は気楽にできた。それが、「練習の時から試合のつもりでやらんかい!」と言う星野監督政権下では雰囲気が一変。張り詰めた空気の中、一瞬たりとも気が抜けなくなった。試合中、私のベンチの定位置は星野監督の前。怒ると前のイスを蹴るものだから、背中をガンガンやられる私は、生きた心地がしなかった。
星野さんが中日の監督になった時、こう聞いたことがある。
「監督になったからって休みの日にゴルフに行っちゃいかんって言わないですよね? 行ってもいいですよね?」
「おう、もちろんや。どんどん行けや」
しかし、フタを開けてみれば、この約束が守られることはなかった。(「革命捕手が見たプロ野球 第4回」へつづく)


















