自民党改憲草案102条にみる“憲法観”の異常性「国民は憲法を尊重すべき」
憲法改正問題を真面目に考えよう(7)
イギリスとの武力抗争を経て、世界初の民主国家アメリカ合衆国が独立したのが1783年であった。その際、「絶対的権力は必ず堕落する」と体験的に知っていたジョージ・ワシントンは世界初の成文憲法(1788年+1791年修正)を制定した。
以来、憲法は、国民の最高意思で権力者を拘束する法として世界に伝播していった。
日本国憲法も99条で「天皇、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重・擁護する義務を負う」と明記している。
ところが、自民党改憲草案102条には違ったことが書かれている。つまり、1項で「国民は憲法を『尊重』しなければならない」と規定し、2項で「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、憲法を『擁護』する義務を負う」と規定している。要するに、「国民は憲法を『尊重』すべきで、政治家以下の公務員はその憲法が国民に守られるよう『擁護』しろ」ということである。
つまり、「国民が憲法を尊重するように、政治家以下の公務員(つまり権力者)が管理する」という関係で、「主権者国民の最高意思である憲法に権力者が従うべきだ」という世界の常識の真逆になってしまう。
■権力者だけが法から自由になる
その上で、自民党改憲草案は、国民に、日の丸と君が代を尊重する義務(3条)と国防に協力する義務(9条の三)を課している。この点も、自由で民主的な諸国の憲法常識に反している。
このような批判に対して、改憲派の自民党議員が、「『国に授権する』という憲法観を採る」と言い放ったことがある。しかし、憲法論議の大前提である「憲法」の定義を勝手に変更することなど許されるはずがない。
この自民党の憲法観には決定的な欠陥がある。それは、草案102条の下では権力者だけが憲法から自由になってしまうことである。つまり、形式的には権力者も国民の一員として憲法尊重義務を負ってはいるが、権力者だけがその「尊重」の認定権を握っている。だから、結局は、モリ・カケ・桜・東北新社のスキャンダルで見たように、権力者だけが法から自由になってしまうのである。そこに法の支配は存在しない。 =つづく
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