本人の感性を追い越すようなスピードで賽は投げられた
シングル「TOKIO」(1980年1月1日発売)⑤
これまで4回に分けてシングル「TOKIO」のサウンドと歌詞について見てきた。では、曲そのものではなく、曲に対する沢田研二の当時の気分はどのようなものだったのか。
ひとつの手がかりがある。島﨑今日子「ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒」(文芸春秋)の中に、後述するアルバム「TOKIO」(1979年11月発売)からの先行シングルについて興味深いエピソードが書かれている。プロデューサーの加瀬邦彦が「TOKIO」を推し、沢田研二が「ロンリー・ウルフ」を推したというのである。
沢田研二はラジオ番組でこう言ったという──。
「加瀬さんは『TOKIO』出そう、出そうと言っていたのに、僕がもう偏屈でね。『ロンリー・ウルフ』を出したい、これじゃなきゃ嫌だって言って」
もし加瀬邦彦が沢田研二を抑え込んで、「ロンリー・ウルフ」を発売(79年9月21日)するタイミングで「TOKIO」が世に出ていたら……。そう、同じく「TOKIO」というフレーズを使った、YMOの「テクノポリス」が収録されたアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の発売日(79年9月25日)よりも4日、早かったことになるのだ。もしそうなっていたとしたら、音楽シーンはどうなっていただろう。


















