(1)「大体お前さんも俺も一匹狼なんだ…あばよ、さよなら、談志師匠」石原慎太郎は弔辞をこう結んだ
共に戦後を代表するトリックスター
談志と石原のつきあいは、一九七一年の参院選から始まっている。その詳細は後述するが、ふたりに共通するのは、少なからず戦後日本を代表するトリックスター的要素を持っていたことである。良くいえば究極のチャレンジャー、悪くいえば究極のやりっぱなし。談志が標榜していた“人生成り行き”そのものである。談志は自分が死んだあとの立川流にあえて指示を残さなかったし、石原の場合は、東京都の尖閣諸島購買計画を思い出すだけで十分だろう。
ならば、好き嫌いは分かれるにせよ、なぜふたりは大衆に人気があったのか。それは、ともに魅力的な悪漢だったからである。
日本神話におけるトリックスターはスサノオとされている。暴れん坊の荒ぶる神でありながら、文化的英雄でもある。談志も石原も文化人の体裁などは気にもとめず、売られた喧嘩は買って出た。だから大衆は放っておかなかった。
ここでトリックスターの定義を確認しておこう。
「トリックスターはぴったりの日本語訳を見つけ難いが、一種の『いたずら者』である」
「日常的な常識を破る知恵や行為によって、既成の秩序に対して反抗するが、失敗に終わるときは単なるいたずら者、もしくは悪者とさえ思われるが、成功するときは、破壊を通じて新しい秩序を創造する英雄という事にもなる。そのような点で著しい二面性を有し、変幻自在でとらえようのない、という特性をもっている」(「神話と日本人の心」河合隼雄)
談志には落語界の外にもさまざまなブレーンがいた。歴代の立川流顧問を見ても、石原のほかに、手塚治虫、森繁久弥、色川武大、山藤章二らそうそうたるメンバーが並ぶ。顧問以外にも、山本七平、小室直樹、西部邁ら、一匹狼的な論客と深い親交があった。これは芸人談志の贔屓筋といえなくもないが、談志の場合は贔屓にされるのではなく、自ら接近して贔屓にさせてしまう。強引な上に理屈っぽい。これほど“粋”とは真逆の“やぼ”で、なおかつ売れた芸人をほかに知らない。
さらに談志は容赦ない毒舌で世間を嘲笑いながら、落語の核心をひと言で言いきった。
「落語は人間の業の肯定であるーー」
講演会で落語初心者を相手にした場合、談志は「忠臣蔵」の討ち入りを素材とし、三〇〇人ほどいたはずの赤穂藩士についてこう解説している。
「この主題は何であるか、と考えますと、“成せば成る”ということであろうかと思います」
「しかし、落語は違うのです。討ち入った四十七士はお呼びではないのです。逃げた残りの人たちが主題となるのです」
「つまり、人間てなァ逃げるものなのです。そしてその方が多いのですョ……。そしてその人たちにも人生があり、それなりに生きたのですョ、とこういっているのです。こういう人間の業を肯定してしまうところに、落語の凄さがあるのです」(「『現代落語論』其二 あなたも落語家になれる」立川談志)
とりわけ落語家を志す若者にとって、この「人間の業の肯定」という定義は落語のイメージを根本から変えてしまうほどの力があった。つまり落語は継承・錬磨するだけの伝統芸ではなく、人間そのものを語る哲学になったのである。そのとき、落語家はどういう存在か、という問いもまた別の意味を持ち始めた。
一方、明治生まれで新宿末広亭の席主だった北村銀太郎は、終戦前後の芸人についてこう述べている。
「寄席の芸人てのは、もともとてめえの家じゃ糞も出来ないもんたちの寄せ集まりなんだよ。家なんかもってるもんは一人もいなかったくらいなんだからね」
「道楽三昧にうつつをぬかした揚げ句、仕事がねえからやってきたなんていうどうにもならない連中ばかりなんだ」(「寄席末広亭」冨田均)
談志の修業時代には、こうした戦前からの生き残りがごろごろいた。
「人間てのはおもしろいもんだよ。あやしげな連中の中から、フッと浮かび上がって名人と呼ばれる人が出てくる」
「九十九は捨てて一つだけなんだ、そういう人がもってるのは。その一つが光ればいいわけなんだ」(同前)
北村が真っ先に名を挙げたのは古今亭志ん生である。そして談志のライバルと目された志ん朝は志ん生の息子なのだ。すでにここからふたりの勝負は始まっていた。 =つづく
▽立川談志(たてかわ・だんし) 1936~2011年。東京都生まれ。本名・松岡克由。1952年、5代目柳家小さんに入門。63年、真打ち昇進。71年に参院選へ出馬し当選。83年、既存の協会制度に異を唱え「落語立川流」を創設。古典落語の再解釈や現代的視点の導入で落語界に革新をもたらし、破天荒な言動と鋭い批評精神でも知られた。テレビでも活躍しつつ、落語界の向上に大きく貢献した。


















