【後藤次利】はどのように『TOKIO』の「超絶編曲」へと行き着いたのか
日刊ゲンダイの連載をまとめた『「沢田研二の音楽を聴く1980-1985」』 が、ついに発売されました。何卒よろしくお願いします。
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さて。まさに「人間交差点」という感じの「沢田研二1980-1985」を通じて、真っ先にブレイクした若き才能が、後藤次利である。何といっても1980年1月1日発売のシングル『TOKIO』のアレンジ兼ベーシストである。あの奇想天外なアレンジとベースプレイで、1980年の日本レコード大賞の編曲賞を獲得するのだ。
今回は後藤次利という人の沢田研二以前の歩みを、ごくごく簡単にご紹介したい。まずは、連載の中でもご紹介した『チョッパーズ・ブギ』(75年)である。連載にはこう書いた。
──ちなみに、昭和世代の知る「チョッパー(ベース)」という言葉。後藤次利がベースを弾いた『チョッパーズ・ブギ』(1975年)という曲が語源なのだ。
チョッパーベース、チョッパー奏法──ベースギターの弦を右手で引っ張ってバチンバチンと離す弾き方、もしくは右手の親指で弦をバシンバシンと叩く弾き方(と書いても想像しにくいだろうが)である。
実際に聴いたほうが早かろう。YouTubeの公式動画があったので、これを。
この曲、そしてサディスティック・ミカバンドのベーシストとして、チョッパーをバチンバチンバシンバシンと決めながら、世に出ることになる。
そしてベーシストに留まらず、アレンジャーとしても頭角を現す。最初のアレンジ作品は、こちらも連載の中で書いたように、原田真二『シャドー・ボクサー』(77年)。
しかし、初めてゆえ、編曲作業は混乱を極めたようだ。後藤次利の作品集CD『FITZBEAT YEARS 1983-1985』のリーフレットにあるインタビューで、彼はこう答えている(改行省略)。
──当時、「アレンジやらない?」って声を掛けてくれたディレクターさんがいて。そのひとりがフォーライフレコードの池田さん。仕事は原田真二さんの「シャドーボクサー」。まだアレンジを始めたばかりで何もわからない時に「ストリングスを入れて欲しい。」と言われたこともあったな・・・これには困った。速攻でYAMAHAのエレピと、様々な編曲本を買いこんで勉強・・・とは言え、にわかではやっぱりね。
そして何とか楽譜を完成させるのだが……
──現場で20人近いバイオリン、ビオラ、チェロの奏者が僕の譜面を見て鳴らした音は、大不協和音!!! 予定ではきれいに響くはずだったんだけど・・・焦ったね。全員に休憩してもらい、慌ててピアノの前で書き直したよ。
私が驚くのは、こんな初歩的な苦労をした『シャドー・ボクサー』が1977年12月発売、そして全編アレンジを手掛けた沢田研二のアルバム『TOKIO』が1979年11月発売、シングル『TOKIO』がご存じ1980年元日発売。つまり「大不協和音!!!」から実質たった2年で『TOKIO』に至り、日本レコード大賞編曲賞を獲得するという事実に、である。
最後に。1980年の後藤次利といえば、沢田研二『TOKIO』と中島みゆき『うらみ・ます』だと思う。このまったく毛色の異なる2曲を、どのような顔でアレンジしたのか。見てみたかった。
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