津野田興一
著者のコラム一覧
津野田興一都立日比谷高校教諭

1965年生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科史学専攻修了。現在、東京都立日比谷高校で世界史を教える。著書に「世界史読書案内」(岩波ジュニア新書)、「やりなおし高校世界史―考えるための入試問題8問」(ちくま新書)、「第2版 ポイントマスター世界史Bの焦点」(山川出版社)など。

世界史の至宝「清明上河図」を読み解く チェーン店は1000年前に生まれていた

公開日: 更新日:

 2012年1月、上野の東京国立博物館において、私は学芸員の方の「立ち止まらず、動きながらご覧くださーい」という指示の声を完全に無視して、この絵の前に張り付いていました。なにしろ、北京の故宮博物院の至宝が、「日本に来るのは後にも先にも一度きり!」という触れ込みでしたから、世界史教員として凝視しないわけにはいかないのです。今日は、その「清明上河図」をご紹介しましょう。

■東西の偶然の一致

 縦25・5センチ、横5メートルの絵巻物は、北宋(960~1127年)の都・開封の様子が、城外から城内に入ってゆくように右から左へと絹布に描かれています。描かれた人物は約770人、牛・馬・ラクダまでが描き込まれ、運河にも20艘ほどの船が見えます。4月上旬にあたる清明節の時期の様子を12世紀に張択端が描きました。

 ちなみに、この「清明上河図」は連載の第15回で紹介した「バイユーのタペストリー」と時代が近く、ユーラシアの東西で「世界の至宝」ともいえる絵巻物が作成されていることに感慨を覚えます。

■流通拠点だった開封

 ところで、北宋の都である開封は黄河と大運河の結節点にあたる地に建設されています(地図(1))。中国の地形は西が高く東が海となっていることから、すべての川は西から東へと流れます。従って東西の移動は容易なのですが、南北の交通が困難でした。そこで隋の時に建設されたのが大運河で、史上初めて中国の南北が連結されました。このため、開封はあらゆるヒトとモノが集まる流通拠点になったのです。

 もともと中国の都は、周囲を山などに囲まれた要害の地である長安や洛陽に置かれてきたのですが、開封はそれとは真逆の平坦な地です。これは軍事的には極めてもろいというデメリットを持っていましたが、それをも上回る経済的なメリットを重視した結果の立地であった、ということになるでしょう。

■宋という王朝

 世界帝国である唐が滅亡したのち、華北にトルコ系の軍事国家が成立し、戦乱の時代となります。俗に「五代十国」と呼ばれる大分裂時代のことです。50年以上にわたる分裂と混乱の中、支配層の中核を担っていた貴族が決定的に没落し、かわって新興の地主たちが経済力を伸ばしました。

 やがて、トルコ系軍事集団の中から台頭した趙匡胤が開封を都として北宋を建て、科挙を整備するなどして君主独裁体制を完成させます。

 皇帝に軍事力を集中させ、北方や西方の遊牧勢力との間には、澶淵の盟(対契丹)、慶暦の和約(対西夏)などの条約を結んで平和を勝ち取り、長江下流域の江南地域の経済発展を背景にして繁栄しました。その都が開封なのです。

■街の様子

 冒頭の「清明上河図」(写真①)をご覧ください。右上に大きな建物が見えますが、これは酒楼(レストラン)と言います。入り口の上に木で作られた櫓のような装飾がなされ、入り口の左側には「孫羊店」という店舗名を示す旗が出されています。「正店」という看板も見えますので、ここが本店であったことが分かります。つまり、チェーン店が1000年前に生まれていたのですね。

 往来には多くの商人や人々が描かれ、よく見ると駕籠に乗った女性の姿も見られます。さらには店舗を構えるもの以外にも露天商が営業をおこない、繁栄の様子が分かります。「孫羊店」の角で人を集めて何やら話をしているのは、講釈師でしょうか。

 また、南宋時代には孟元老による「東京夢華録」という開封の様子を描いた本も残されています。「東京」とは開封の別名ですが、資料からは、朝早くから市が立っていたこと、ありとあらゆる食材が取引されていたこと、そして演芸小屋などのアトラクション施設が立ち並び、各種の芸人が人々を楽しませていたことなどを読み取ることができるでしょう。

 清明上河図の写真②には占い師の様子が克明に描かれています。看板には「神課」「看命」「決疑」などと書かれていて、占ってもらった人がどことなくうれしそうに見えるのは良い結果が出たからでしょうか。

■唐の長安との比較

 ところで、中国史研究において、唐の後半期から宋に至る時期に決定的な変化が生じたとする「唐宋変革」という概念があります。京都大学系の研究者が唱え始め、第2次大戦後には東京大学系の研究者との間で論争となりましたが、現在では定説とされています。

 その変化の一端として、唐と宋における首都の比較をしてみましょう。開封の地図(地図(2))を見てみると、いたるところに瓦子と呼ばれる歓楽街があることに気づかされます。唐の長安は政治と軍事に力点が置かれたため、条坊制という碁盤の目のような区画に分けられ、商品の取引は東西の市に限定されていました。

 それに対して開封には条坊制はなく、街の中をいくつもの運河が貫き、交通の便宜がはかられていたことが特徴でした。夜になるとすべての城門と坊の門まで閉じられて外出禁止となる長安に対し、開封は夜間どころか朝まで営業する店すら存在したのです。

 このような開封の特徴は、一言で言えば「自由」であり、経済中心の都であったとまとめることができるでしょう。

■開封陥落

 しかし開封の繁栄にも終わりがやってきます。「風流天子」と呼ばれた徽宗の時代に東北地方の女真族が台頭し、1126年の開封陥落とともに北宋は滅亡します。まるで「東京夢華録」の名前の通り、開封の繁栄は夢のように消えたのです。

 なお、開封は先にも紹介した通り平坦な地に建設され、しかも暴れ川として知られる黄河に沿った地でもあることから、何度も水没して土砂に埋もれてゆきました。今や開封の栄華は土の下、当時を知るのは、やはり「清明上河図」を見るのが一番なのでしょう。

【資料】孟元老「東京夢華録」

 その東の通りの北側は、潘楼酒店という酒楼(レストラン)で、その下では毎日午前4時ごろから市がたち、衣類・書画・珍奇な愛玩物とか犀(さい)の角や宝玉などを売買した。夜が明け放つと、羊の頭・肺臓・腎臓・胃袋や、ウズラ・ウサギ・ハトなど山林でとれる食用の禽獣(きんじゅう)と、カニ・アサリの類の取引をし、それが終わると様々な職人が市に出てきて、こまごまとした材料を売買する。…通りの南は桑家瓦子(がし)(瓦子とは歓楽街)で、北寄りは中瓦(ちゅうが)、その奥は裏瓦(りが)といった。瓦子の中には大小の演芸小屋が五十余座あり、なかでも中瓦子の蓮荷棚(れんかほう)、牡丹棚、裏瓦子の夜叉棚、象棚はもっとも大きく、数千人を収容することができた。……瓦子の中には薬売りや八卦見、古着売り、飲食物の掛け売り、切紙芸人のたぐいも大勢いて、一日じゅうここにいたら、日が暮れるのも気がつかなかった。(松枝茂夫編「中国古典文学大系56 記録文学集」平凡社から)

■もっと知りたいあなたへ

中国開封の生活と歳時 描かれた宋代の都市生活
伊原弘著(山川出版社 1991年) 2819円(税別)

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

最新のライフ記事

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    不倫報道の福原愛 緩さとモテぶりは現役時から評判だった

  2. 2

    福原愛にも不倫報道!徹子の部屋での異変と台湾の家庭事情

  3. 3

    小池知事“菅攻撃”画策不発でブチ切れ!宣言延長も政争の具

  4. 4

    福田元首相秘書が懸念「国会でモラルハザード起きている」

  5. 5

    “里帰り不倫”福原愛はシンママに勝機 モラハラ夫に同情票

  6. 6

    NEWS加藤の吉川英治新人賞は本物 一芸ジャニーズ台頭なぜ

  7. 7

    ボランティア辞退に意向確認 もはや東京五輪は“真っ黒”だ

  8. 8

    これぞ教育!帽子を脱がない校則違反の男子生徒に校長は…

  9. 9

    英中部 絶壁の縁にテント張り「脳死状態」と罵られた家族

  10. 10

    中学受験始まる新4年生「塾でつまずき出す」のが5月の理由

もっと見る