ローマ繁栄の礎を築いたオクタウィアヌス
西暦14年8月19日、ひとりの傑物が息を引き取りました。この世の栄華のすべてを獲得した彼は、波瀾万丈の生涯をおくり、歴史に名を残すだけでなく、その後の1500年にもおよぶローマ帝国の礎を築いたのでした。この人物の名前はオクタウィアヌス(写真①)。あのユリウス=カエサルの養子で初代ローマ皇帝と言われる人物です。彼の肩書を並べたのが冒頭の資料です。
では、この資料はいったい何を表しているのでしょうか? それを知るためには、ローマの歴史を振り返る必要があります。
■共和政と「内乱の1世紀」
都市国家として始まったローマは、前509年にエトルリア人の王を追放し、貴族によって構成される元老院を中心とした共和政を採用します。やがて、長期にわたる身分闘争を経て、平民たちも政治に参加できるようになり、そのエネルギーを各地の征服戦争に注ぎました。そして最大のライバルであるカルタゴを前2世紀半ばに滅ぼすと、地中海全域に支配権を拡大してゆきます。
しかしその結果、貧富の格差が増大するなど社会問題が深刻化し、土地の再分配を目指したグラックス兄弟による改革が有力者の反発を受けて挫折すると、ローマは「内乱の1世紀」と呼ばれる混乱の時期を迎えます。この時期には市民皆兵の原則が崩れ、有力者が自らの私兵を率いて政権を争いました。
■ルビコン川を渡る「さいは投げられた」
このような中、ポンペイウス、クラッスス、カエサルの3人の有力者が元老院を無視した実力政治を目指す密約を交わします。いわゆる第1回三頭政治の始まりです。カエサルはガリア(ベルギー辺り)遠征を成功させて属州を拡大し、ローマの民衆から絶大な支持を得ます。この間、クラッススがパルティア(イラン、イラク、トルコ東部辺り)への遠征で戦死し、ポンペイウスとカエサルの関係が悪化すると、元老院はカエサルに「軍隊を解散してローマに戻れ」との命令を発します。
カエサルが軍隊を解散してローマに戻れば殺されます。逆に解散せずにローマに戻れば「国家の反逆者」とされてしまいます。北イタリアのラヴェンナにいたカエサルですが、その近くにはルビコン川が流れていました。ここを越えればローマの本土です。カエサルの名言、「さいは投げられた」はこの時に生まれました。現在でも「ルビコン川を渡る」という慣用句が「後戻りできない重大な決断」の意で使われていますね。
ルビコン川を軍隊を率いて越え、ローマに入ったカエサルを民衆は歓呼で応え、元老院はカエサルを逮捕することができません。その後、ポンペイウスを倒し、エジプトでクレオパトラと過ごしたカエサルは、絶大な権力を手に入れます。前45年のことでした。
■「ブルートゥス、おまえもか」カエサル暗殺
元老院との緊張関係をはらみながらも、王のごとき独裁者として振る舞うようになったカエサルは、前44年に終身独裁官の地位に就きます。そもそもローマの法では、独裁官は半年間限定で再任が不可とされる臨時の官職でした。カエサルは、いにしえの王の衣をまとい、元老院貴族たちとの対立は頂点に達します。
占い師の予言で「3月15日まで気をつけてください」と言われていたカエサルは、その日の朝、「何事も起こらなかったではないか」と強気の姿勢を見せ、元老院へと向かいました。しかし、その場で共和政を守ろうとする元老院議員によって23カ所にもおよぶ傷を負わされて暗殺されました(写真②)。カエサルがいまわの際に放ったとされる「ブルートゥス、おまえもか」は有名な言葉ですね。予言は当たってしまったのです。
■自殺したクレオパトラ海戦から天下統一
カエサル暗殺後、カエサル派の武将たちの中から、アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスの3人が第2回三頭政治を始めます(地図参照)。レピドゥスが早々に離脱したのち、エジプトのクレオパトラと結んだアントニウスと、カエサルの養子であるオクタウィアヌスとが対立しました。
両者は前31年、ギリシア沖のアクティウムで激突し、オクタウィアヌスが勝利します。前30年には、自殺したクレオパトラの領土であるエジプトを属州として、ここにオクタウィアヌスによる地中海統一が実現しました。
■元首政
さて、絶大なる力を見せつけたオクタウィアヌスですが、冒頭の資料を再び参照しながら、その権力構造を分析してみましょう。オクタウィアヌスは前40年に初めてインペラトール(凱旋将軍)の呼称を与えられ、軍事権を保有しました(A、D)。ちなみに彼は生涯に21回もこの呼称を与えられています。さらに前30年にはトリブニキアエ・ポテスタティス(護民官職権)を受け、生涯37回にも及びました。これは元老院への拒否権を保有する官職でした(E)。
そして前27年1月13日に属州に対する命令権を獲得します。この権限は任期1年のコンスル(大統領)が保有していますが、オクタウィアヌスは13回もその地位に就いています(C)。これほどの権限を持ったオクタウィアヌスは、同1月16日に元老院を尊重することを約束し、ローマ共和政の伝統を維持することを示しました。自分たちの権限が剥奪されてしまうのではないかとオクタウィアヌスを恐れていた元老院議員たちは感動して、彼にアウグストゥス(尊厳者)の尊称を奉ります(A)。オクタウィアヌスは、王のごとき振る舞いをして暗殺された養父であるカエサルの轍を踏まなかったのでした。
そして前12年には宗教上の最高指導者である大神祇官(B)となった結果、元老院よりパテル・パトリアエ(国父)の称号が贈られます(F)。
かくしてオクタウィアヌスは、「余は権威において万人に優越していることがあっても、権力に関しては、余と共に公職にある同僚たちより卓越したなにものをも保持することはない」(「神皇アウグストゥス業績録」)と自ら述べたように、既存のローマ伝統の官職をいくつも重ねることで権威を高めて事実上の支配者になりながらも、元老院や共和政といったローマの伝統を尊重する政治をおこなったのです。
この元首政のもと、「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる繁栄の200年間を迎えることになるのです。
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「興亡の世界史 地中海世界とローマ帝国」
本村凌二著(講談社学術文庫 2017年) 1360円(税別)