(1)吉川英治の小説「宮本武蔵」は史実とはかなり違う
では、史実の宮本武蔵とはどのような人物だったのでしょうか。その手掛かりとなる重要な史料が「小倉碑文」です。これは武蔵の養子である宮本伊織が、武蔵の死後9年の承応3(1654)年に建立した顕彰碑です。武蔵を直接知る人物が残した記録ですから、その価値はきわめて高いといえます。
この碑文で武蔵の姓名は「新免武蔵玄信」と記されています。私たちは普段「宮本武蔵」と呼んでいますが、実はこれも確実ではないのです。まず「武蔵」は名前ではありません。正式には「武蔵守」という官途名で、大岡越前や吉良上野と同じような呼称です。また「五輪書」には「新免武蔵守藤原玄信」と署名しています。玄信は「はるのぶ」で実名、藤原は氏。そして名字にあたるのが新免です。
すると疑問が生まれます。宮本とは何なのか。養子が宮本伊織を名乗っていますから、宮本という家名そのものは存在したはずです。しかし武蔵自身は新免を名乗る。両者の関係はよくわかっていません。
美作国宮本村の出身だから宮本武蔵と呼ばれた、という説も有名です。しかし「小倉碑文」は武蔵を播磨国の出身と記しています。こうなってくると、従来広く知られてきた武蔵像にも再検討が必要になってきます。
私は近年、この「小倉碑文」を出発点に武蔵の足跡を追い直してみました。すると、これまで別々に語られていた事実が一つにつながり始めたのです。次回は武蔵の父、新免無二に注目しながら、武蔵の出自と若き日の姿を追ってみたいと思います。

















