映画監督・村川透さんが語る俳優・松田優作「出会った瞬間から彼で映画を撮ると決めた」
村川透さん(映画監督/89歳)
1989年に40歳の若さでこの世を去った俳優の松田優作。鮮烈な作品として思い出されるのは「最も危険な遊戯」の遊戯シリーズはじめ、「蘇える金狼」「野獣死すべし」などのハードボイルド作品だが、メガホンを取ったのは村川透監督だ。
◇ ◇ ◇
僕は山形の高校を出て1959年に福島大学経済学部を卒業し、日活に入りました。
外国の名画が怒涛のように入ってきた時代。映画はよく見ました。学生時代の記憶といえば石原慎太郎原作「太陽の季節」「狂った果実」かな。鮮烈でしたからね。それから安井昌二が敗残兵を演じた人間ドラマ「ビルマの竪琴」や井上梅次が監督した映画とかね。
──日活は元は日本活動写真株式会社だった。それが戦後、永田雅一がトップの大映と東京にあった撮影所が配給もやる日活などになっていった。
その頃の大映はまだ時代劇を撮っていた時代でね。日活の方が感覚的に新しかった。監督では井上や僕の師匠の舛田利雄とかね。慎太郎カットがはやったりして石原裕次郎の映画を作り始めるわけです。
日活では助監督を13年やりました。長い下積みでは舛田をはじめ、西河克己、森永健次郎といった監督にかわいがってもらいました。助監督はチーフから5番目までいて、それぞれ役割があった。衣装、小道具などが担当の助監督がいてね、撮影で使うステッキとか帽子を探してくるわけだけど、時代が違っていると殴られた。でも、それが本当に勉強になったし、楽しかったんだね。そういう下働きをいい加減にやるヤツは映画を作る人間としてはダメと体で覚えました。やっぱり人間はいろいろやって恥をかかないと成長しないですね。
いい加減な監督もいてね。主役の女優にマンツーマンの演技指導をしたいからって後は全部助監督任せ。その監督は史上最低の人が入らない映画を作ったけどね。誰とは言わないけど。
記憶に残るのはアメリカ映画「トラ・トラ・トラ!」。舛田も監督のひとりで僕は助監督として走り回った。難しい映画で、死に物狂いでやりました。
監督デビューは「白い指の戯れ」(72年)。松田優作と出会ったのは76年のドラマ「大都会 闘いの日々」(日本テレビ系)の4話「協力者」です。優作はゲスト出演でしたが、その時から「優作で撮る」と決めていた。彼とならいい作品が撮れるというインスピレーションがあったんだね。
最初は「最も危険な遊戯」(78年)。「殺人遊戯」「処刑遊戯」の遊戯シリーズ、「蘇える金狼」に「野獣死すべし」と2年間で5本。


















