(3)「森保監督は『指揮官に必要な冷徹さ』を確固たる信念として持っています」
柱谷哲二(元日本代表/61歳)
1980年代の日本リーグ時代から「闘将」として日本サッカーを牽引してきた。90年代になってJリーグ創設、W杯最終予選での奮闘などでサッカーの楽しさ、過酷さ、素晴らしさを世に知らしめ、そして現役引退後は高校、大学、JFL、J3、J2、J1とすべてのカテゴリーの指導現場に立ちながら、日本サッカーの変遷をつぶさに見てきた男が「日本代表とは?」「北中米W杯に挑んだ森保監督とは?」「日本サッカーの未来とは?」を全3回にわたって存分に語り尽くした。(全3回の第3回)
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森保一という男が、初めて日本代表に招集された時、正直に言えば、私は彼の名前すら知りませんでした。当時の日本サッカーリーグ(JSL)で何度か対戦していたはずなのですが、印象に残っていなかったのです。
失礼な話なのですが、読み方すら分からなかった。同世代で仲の良かった福田が、知っているのに「名字はモリホ?」「それともモリポ?」と茶化していたことを覚えています。
最終的に「ポイチ」と呼ばれるようになったのも、おそらく福田がきっかけだったはずです。
時々、思い出す光景があります。
宿泊先のホテルに設けられたリラックスルームには福田、ゴン(中山雅史)、井原正巳、そして森保の4人がいつも一緒にいました。
福田が中心となって喋り、ゴンが茶化してみたり、井原がテーマを出したり、森保が笑いを取ってみたり……。そんな彼らの賑やかなやり取りを耳にしていました。
森保と私は相部屋になることが多かった。
彼は、とにかく真面目な男でした。プライベートの話題を交わした記憶はほとんどありません。いつもイヤホンを装着して熱心に何かを聴いていました。
「何を聴いているんだろうか?」と知りたくなり、中身を確認したことがあります。音楽かと思いきや、流れていたのは英語のヒアリング教材でした。
将来を見据えて勉強しているんだ、と感心させられたものです。
プレーヤーとしての彼は、ひと際目立つことはありませんでしたが、とにかく基本に忠実で戦術理解度が非常に高い選手でした。フィジカルに恵まれていたわけではありませんでしたが、世界と戦えたのは「頭を使っていた」からです。
ハンス・オフト監督の基本チーム戦術、規律に対しても極めて忠実でした。
ピッチ中央でチーム最年長のラモス瑠偉さんが「俺に出せ!」と要求しても、オフト監督の指示通りにサイドへ展開する。ラモスさんに「アイツ! つまんねぇ!」とぼやかれても、彼は自分の役割を全うしていました。
1993年10月28日。カタールの首都ドーハで最終戦・イラク戦が引き分けに終わり、ワールドカップ初出場を逃した夜のことは、今でも鮮明に覚えています。
ホテルに戻り、相部屋だった森保と2人っきりで部屋に入りました。
私はソファーにもたれて水を飲みながら「夢であってくれないか……」「イラク戦が明日だったらいいのに……」と呆然としていました。
森保はベッドに突っ伏して数分間すすり泣いた後、いきなり立ち上がってフラフラっとベランダへ歩いていきました。
慌てて「おい! 大丈夫か? どこへ行くんだ?」と声をかけると彼は「暑いからベランダへ行きます」と答えました。 部屋のクーラーは効いているのに熱い外気を吸いに行こうとする様子を見て、私は「まさか何か取り返しのつかないようなことをするのではないか……」と背筋が凍るような思いがしました。
あの夜、試合終了間際に同点弾を決められ、アメリカ行きのチケットを手放してしまった私たちは、全員がおかしくなっていたと思います。
それから長い年月が経ちました。森保は監督として日本代表を率い、ワールドカップ北中米大会に臨みました。
サンフレッチェ広島での3度のJ1制覇の実績を見れば、彼の指導者としての資質の高さは明らかでした。前任のミハイロ・ペトロヴィッチ監督が築いた超攻撃的なサッカーに、森保は強固な守備の組織と攻守のバランスの良さを持ち込みました。
一見、柔和で優しそうに見えますが、彼はそれだけではありません。規律を守れない選手は、どれほどの名手であってもスパっと外す。感情に流されることなく、あくまでチームを勝たせることを最優先に考える。欧州のトップレベルでは当たり前の「指揮官に必要な冷徹さ」を確固たる信念として持っています。


















