欧米に翻弄されたメキシコの近代 米国との関係から考える
皆さんは合衆国というと何を思い出しますか? もちろんアメリカ合衆国だよ、と言われそうですが、実は世界にはもう一つ合衆国があります。そう、メキシコ合衆国なんです。今回はメキシコ合衆国の歴史を、アメリカ合衆国との関係から考えてみましょう。
■独立運動
16世紀の前半、スペインの「コンキスタドール」(征服者)だったコルテスがアステカ王国を征服して以来、メキシコ高原は植民地状態にありました。しかし、アメリカ合衆国独立の影響もあり、19世紀に入ると、ラテンアメリカ諸国の独立とともに、メキシコでも独立運動が強まります。
日本の永田町にあるメキシコ大使館では、毎年9月16日には「ビバ・メヒコ(メキシコ万歳)」と叫ぶ習わしとなっています。これは、1810年のこの日にクリオーリョ(現地生まれの白人)であるイダルゴ神父(①)が、「ドローレスの叫び」(資料)をおこなったことに由来しています。つまり、建国記念日なのです。
当時スペイン本国は、フランスのナポレオン1世による支配を受けており、植民地支配に力を注ぐことができませんでした。しかし、メキシコではイダルゴ神父が1811年に処刑されてしまい、ラテンアメリカの独立を自国勢力の拡大に利用しようとしていたアメリカ合衆国からの支援も途切れがちでした。
結局1821年に、クリオーリョを中心とした軍人政権が独立を獲得します。
■資料「ドローレスの叫び」……自分の帰属しない国に、そして、祖国の子である先住民に、スペイン人は多大な損害を与え、長きにわたり冷酷に支配した。この国を、彼らから奪い取る戦争を仕掛けるのだ。
■アメリカ合衆国の侵略
その後メキシコでは政治形態を巡る混乱の中、共和政へと移ります。この19世紀前半は、メキシコの領土が確定していく過程でもありました。ところで皆さんは、ロサンゼルス、サンフランシスコ、サクラメント、サンタフェ、サンディエゴなどと聞いて、共通点が2つあることに気が付くでしょうか?
ひとつはアメリカ合衆国の西部の都市名であること、もうひとつはスペイン語の名称であることです。実はこれらを含む地域は、もともとメキシコ合衆国の領土でした。それをアメリカ合衆国が奪い取ったのです。
西部への領土拡大をはかるアメリカは、メキシコ領であったテキサスへの入植活動を進めます。現地に入った人々がテキサス共和国の独立を宣言したのは1836年のことでした。やがて、45年にアメリカがテキサス共和国の併合を宣言し、翌46年にアメリカ=メキシコ戦争が勃発します。2つの「合衆国」の直接対決はアメリカの勝利に終わり、48年のグアダルーペ=イダルゴ条約によって、カリフォルニアをも含めた広大な領土をメキシコは失いました(②)。
■レフォルマ戦争
国土の半分を失い、アメリカへの債務を抱えたメキシコで、新たな大統領となったのがメスティーソ(白人と先住民の混血)であるフアレスでした。時代の主役はクリオーリョから、メスティーソへと転換していきます。
フアレスは1857年に自由主義的な憲法を制定することに成功します。しかし、国内の自由主義者と保守派との間で「レフォルマ戦争」(1858~61年)が勃発し、内戦状態に陥りました。「レフォルマ」とは「改革」を意味する言葉で、メキシコシティーを基盤とする官僚や白人地主などの特権階級、さらにカトリック教会の聖職者を中心とする保守派に対し、メキシコ湾に臨むベラクルスを拠点とするフアレスら自由主義者が対抗して社会変革を求めたものでした。
フアレスは苦しい内戦を勝ち抜いて政権を確立します。ところで、もうひとつの合衆国であるアメリカで、先住民出身の大統領が誕生するのはいったい、いつになるのでしょうか。
■マクシミリアンの即位
財政難に陥ったフアレスが、1861年に「対外債務返済停止」を宣言すると、返済を求めるイギリス・フランス・スペインの3カ国はメキシコに軍隊を送ります。このうち、最後まで駐屯を続けたのはフランスのナポレオン3世でした。アメリカ合衆国が南北戦争で手いっぱいになっている隙をついて、フランスの勢力をアメリカ大陸で拡大しようとしたのです。
ナポレオン3世が利用したのはハプスブルク家のマクシミリアン。当時のオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフの弟です。1864年にヨーロッパからメキシコに到着したマクシミリアンはメキシコ皇帝に即位し、メキシコ人の服を着て、「メキシコ人のための皇帝」であることを示そうとします。しかし、民衆はよそ者の皇帝を冷ややかな目で見るだけでした。
■処刑
南北戦争の終結にともなうアメリカ合衆国の反対、そして財政難や、フランス国内での支持が広がらないのを見て取ったナポレオン3世は、マクシミリアンに退位を求め、メキシコから軍隊を撤退させます。しかし、「メキシコ人のための皇帝」であることを貫こうとしたマクシミリアンは国内の反対勢力の前に敗北します。妻で皇后のカルロッタは、ヨーロッパ各地の君主に支援を求めますが実現することはなく、発狂しました。そしてマクシミリアンは、亡命を勧める周囲の意見を無視して逮捕されたあげく、処刑されたのです。
その時の様子をフランスのマネがのちに描いています(③)。ところで、この絵と同じ構図の有名な作品を見たことはないでしょうか? ゴヤの「1808年5月3日」です(④)。ゴヤはナポレオンがスペインのマドリードで民衆を虐殺する様子を、痛烈な批判を込めて描きましたが、マネはその構図を利用しながらマクシミリアンの銃殺刑について描きました。
ちなみに、マネは銃殺する兵士たちをフランス兵として描いています。この時にフランス軍は撤退していますので、実際にはメキシコ兵なのですが、フランスのナポレオン3世による干渉に踊らされて処刑されたことを風刺したものとも言われています。いずれの絵も「ナポレオン」が絡んでいるところが興味深いです。
■もっと知りたいあなたへ
「物語 メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち」
大垣貴志郎著(中公新書、2008年)924円(税込み)