鄧小平が残した中国共産党のカタチ 改革開放と天安門事件
グラフをご覧ください。1980年代から中国は高い成長率を続けており、「世界の工場」と呼ばれるようになった様子が分かります。しかし、1989年から90年の一時期だけ、成長率が大きく落ち込んでいます。いったい、なぜでしょうか? 今回は鄧小平(写真①)に焦点を当ててみましょう。
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■1度目の失脚と復活
1904年に中国・四川省で生まれた鄧小平は、16歳で「勤工倹学」運動に参加します。これは中国の青年が、フランスで働きながら学ぶというもので、ここで彼は共産主義運動に参加します。この運動には、のちに首相となる周恩来(1898~1976年)もおり、この先輩・後輩関係は、鄧小平の政治的な資産の一つとなりました。
1927年に帰国した鄧小平は、中国共産党の革命運動の中で頭角をあらわしますが、中国国民党との争いに敗北し、共産党内の路線闘争によって失脚します。その後復活をとげ、日本との戦争や、その後の国民党との戦いで軍隊を率い、共産党の勝利に貢献しました。1949年に中華人民共和国が成立すると、1952年には副総理と共産党の秘書長に就任します。“事務と組織能力に秀でた”鄧小平は、毛沢東(1893~1976年)の信頼を得て地位を上昇させていったのです。
文化大革命
毛沢東による無謀な大躍進政策で疲弊した経済を回復させるため、劉少奇(1898~1969年)が国家主席となり、そのもとで鄧小平は生産力の向上に努めます。国民の意欲を高めるために、「白猫であろうと黒猫であろうと、ネズミを捕るのが良い猫だ」という有名な言葉で、改革を進めました。
しかし、毛沢東による奪権闘争である文化大革命の最中に、鄧小平は紅衛兵らの攻撃を受け、1966年に2度目の失脚を経験します。62歳の時でした。軟禁状態となって行動の自由を奪われたのは、鄧小平だけではありませんでした。彼の子供たちも迫害を受け、長男の鄧樸方は半身不随の大けがを負うことになります。
ところが、毛沢東の地位を狙ったともいわれる林彪(1907~71年)が、ソ連に亡命する途上で墜落死するという謎の事件が起きました。さらに国内も文革で混乱する中、実務官僚として、鄧小平は再び復活したのです。
■毛沢東の死去
文革推進派とのせめぎあいで、3度目の失脚となりますが、1976年に毛沢東が死去したことに伴い、文化大革命が終了し、鄧小平の本格的な復活が実現しました。
この時点で、革命第1世代の中で生き残って政治の中枢にいる者はごくわずかでした。鄧小平はその中でも、最有力者となっていたのです。73歳の時でした。人々は彼を「不倒翁(おきあがりこぼし)」と呼びました。
■外資や海外技術を導入
鄧小平は1978年の中国共産党の会議で、のちに改革開放と呼ばれる政策への転換をはかります。中国南部に経済特別区を設けて外資や外国の技術を導入すること、大躍進運動以来の人民公社を解体して農民たちのやる気を引き出す生産請負制を始めることなどでした。このような改革は、胡耀邦(1915~89年)や趙紫陽(1919~2005年)といった、若きテクノクラートたちによって推進されました。
天安門事件
一方、経済的な自由化に伴い、政治的な自由を求める声が上がります。それは、権力を掌握する共産党の支配に対する異議申し立てという形で噴出しました。1989年初頭から、北京の天安門広場前に学生たちが集まり始め、5月以降には、市民を加え100万人を数えるほどになりました。
この時、鄧小平ら共産党指導部には、自らが紅衛兵らによって攻撃され暴力を受けた文化大革命の記憶がよみがえったはずです。ひそかに集結した人民解放軍が、天安門近辺にいた人々や、座り込みをする人々に対して武力弾圧を加えました(写真②)。
弾圧を指示した鄧小平らは、江沢民(1926年~)を総書記に任じて政治的な引き締めをはかります。中国における民主化運動は徹底的に抑え込まれ、現在もなお、中国では天安門事件を想起させる言葉をネット上で検索することができないほどです。
■南巡講話
血の弾圧の代償は、経済的な冷え込みでした。冒頭のグラフをもう一度ご覧ください。天安門事件とその後の引き締めにより、1989年と90年の成長率は大きく低下しました。
これに対する鄧小平の対応として、1992年に広州でおこなった「南巡講話」が有名です(資料参照)。ここに出てくる「一つの中心」とは経済建設、「二つの基本点」とは4つの基本原則と改革開放政策のことです。そして、4つの基本原則とは、1979年に鄧小平が提示した社会主義政治体制の原則で、①社会主義の道②人民民主独裁③共産党の指導④マルクス・レーニン主義と毛沢東思想です。
生活水準の向上によって国民の支持が得られるという考えは、現在の中国共産党の一貫した立場となっています。そして、それを支える4つの基本原則も、共産党の一党独裁にお墨付きを与え、現代中国がいまだに議会制民主主義を採用せず、開発主義型の政治と経済運営をおこなうベースとなっているのです。
鄧小平による南巡講話以後、中国経済の急速な回復と発展が始まり、「政治の季節」から「経済が好調であれば民主化を無理に求めない」という現代中国の国民的なメンタリティーへと転換していったのでした。現在の習近平政権の政治と経済の運営は、その延長線上にあるのです。
■変わらない本質
鄧小平は1997年2月に亡くなります。彼が心血を注いだ香港返還が実現する直前のことでした。
鄧小平によって確立された中国共産党の本質は、現在も変わってはいません。むしろ、変わったのは中国と世界との関係でした。日本は、その中国との新しい関係をどのように取り結ぶのか、ということこそが問われているのです。私たちは歴史の中から、中国という国の本質をつかみ取りながら、対応してゆく必要があるのでしょう。
■資料 「南巡講話」1992年
党の第11期三中全会以来の路線を堅持する鍵は、「一つの中心、二つの基本点」にある。社会主義を堅持せず、改革開放せず、経済を発展させず、人民生活を改善しないなら、袋小路に入るだけだ。基本路線は百年の間は動揺せずに続けなければならない。……なぜ「六四」(注:天安門事件のこと)以後我々の国家は安定していられたのか。それは我々が改革開放をやり、経済発展を促進し、人民生活が改善されたからだ。
改革開放はもっと大胆にやらなければならない。纏足(てんそく)をした女のようではだめだ。いいと思えば大胆に試み、大胆にぶつかる。……そうやって30年もたてば、我々は各方面でより成熟し、より安定した制度を形成することができるだろう。
(岸本美緒著 放送大学教材「中国社会の歴史的展開」放送大学教育振興会 2007年から)
■もっと知りたいあなたへ
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