津野田興一
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津野田興一都立立川高校教諭

1965年生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科史学専攻修了。現在、東京都立立川高校で世界史を教える。著書に「世界史読書案内」(岩波ジュニア新書)、「やりなおし高校世界史―考えるための入試問題8問」(ちくま新書)、「第2版 ポイントマスター世界史Bの焦点」(山川出版社)など。

ミャンマー軍事政権なぜ復活?翻弄された2人のアウンサン

公開日: 更新日:

 2011年に民政移管が進み、その後の全国選挙によってアウンサンスーチーが実質的な大統領である国家顧問に就任したビルマ(ミャンマー)ですが、今年2月1日の軍部によるクーデタで、またしても軍事政権が復活してしまいました。それはなぜなのでしょうか? ビルマの歴史を振り返りながら考えてみましょう。

 なお、現在の軍事政権は自国のことを、ビルマからミャンマーへと1989年に突如変更しました。ビルマもミャンマーも、歴史的な呼称として使われてきたものですが、ここではビルマと表記します。

■植民地化とタキン党

 ビルマを植民地としたイギリスは、ビルマ人を中心とする平野部を「管区ビルマ」として直接統治、北部や東部のカレンニー、シャン、カチン、チンなどの少数民族地域を「辺境地域」と呼び、植民地下で一定の支配権を認めた「藩王」を存続させる間接統治の地域としました。これがのちの、国民統合を妨げる要因となったことは言うまでもありません。

 この植民地支配に対抗して、ビルマ人の若者たちの間に「我らのビルマ協会(タキン党)」という政治団体が1930年に結成されます。タキンとは「主人」という意味で、互いに名前の前にタキンという言葉をつけて呼び合いました。例えば「タキン津野田」といった具合です。

 タキン党は、正式名称の「我らのビルマ協会」から読み取れる通り、少数民族をも含めたビルマ人という「国民」をつくり出すことで、イギリスからの独立を実現しようという意図を込めていました。そしてそのリーダーの一人にアウンサン(写真①)がいたのです。

■ファシストへの抵抗

 日本の陸軍参謀本部で謀略を担当していた鈴木敬司は、読売新聞記者の南益世との偽名を使ってビルマに潜入し、独立に向けて外国との協力を模索していたアウンサンを拘束して東京に連行します。「南機関」という大本営直属のビルマ謀略機関をつくり、親日政権の樹立を画策するためでした。

 太平洋戦争が勃発する中、日本はビルマに侵攻してイギリス軍を追い出しますが、日本軍による差別的な態度にビルマ人たちの不満が高まりました。例えば「キンペイタイン」というビルマ語がありますが、これはビルマ人への虐待や拷問をおこなった日本の「憲兵隊」に由来しています。

 1944年、日本軍によるインパール作戦が大失敗に終わる中、アウンサンは反ファシスト人民自由連盟(ビルマ語ではパサパラ)を組織して日本に対する抵抗運動を始めます。翌45年3月27日に武装蜂起を始め、日本軍を苦しめました。

 日本の敗北後、アウンサンのパサパラとイギリスとの折衝がおこなわれ、1948年にビルマ独立が実現します。アウンサンの目指した独立ビルマは、資本主義と社会主義の共存という柔軟路線と、少数民族の権利擁護を求めるものでした(資料参照)。しかし、独立目前の47年7月19日、アウンサンは13発の弾丸を撃ち込まれて死亡します。政敵による暗殺事件でした。

■政局混乱とクーデタ

 アウンサン亡きあと、パサパラ政権に対するビルマ共産党や少数民族との争いや、越境してきた中国国民党軍との戦いが勃発し、政局は混乱します。結局1962年に国軍を握るネ=ウィン大将がクーデタにより実権を掌握することとなりました。

 これはアジアの多くの国々に共通する点なのですが、植民地状態からの独立を獲得するためには軍事力が必要でした。その結果、独立を獲得したのちに軍部の発言力が強くなるのは理の必然だったのです。

 そして、ネ=ウィンのもとで、閉鎖的な社会主義政策がとられた結果、国民の生活水準は低下し、少数民族に対する冷遇から武装闘争も展開されるようになってしまいました。国軍による強権体制が国内を覆ってしまったのです。

■8888

 1988年ラングーン工科大学の学生と警察との小競り合いから、8月8日のゼネストへと展開したことから、「8888」と呼ばれる民主化運動が始まります。しかし、国軍による2度目のクーデタが起こり、軍事政権が樹立されました。翌89年には国名をミャンマーに変え、首都ものちに内陸部のネピドーに移されました。

 アウンサンの一人娘であったアウンサンスーチー(写真②)は、1988年の民主化運動に際し、国民民主連盟(NLD)を結成して指導者となります。国軍による軍政府は彼女を自宅軟禁し、89年から断続的に15年以上も自由を奪い取りました。

■自宅軟禁から解放

 この間、1991年にはアウンサンスーチーにノーベル平和賞が贈られました。軟禁中であり、オスロでおこなわれた授賞式に出席することがかなわなかったため、代理でイギリス人の夫と2人の息子がメダルを受けました(写真③)。

 ようやく2010年に自宅軟禁から解放されて自由の身となり、11年に民政移管がなされました。しかし、軍政府によって規定された憲法にもとづき、議会では25%の軍人枠が与えられていることから、国軍は拒否権を保有しています。そのような中、15年の総選挙において国民民主連盟が圧勝しました。

■国民統合のシンボル

 2016年にアウンサンスーチーは国家顧問に就任します。本来であれば大統領になるはずなのですが、軍政時代に作られた憲法規定により、配偶者が外国人である者は大統領になれないというルールになっていたからです。もちろんアウンサンスーチーの大統領就任を阻止するための規定だったのですが、彼女は国家顧問として国民統合のシンボルとなってゆきました。

 しかし2020年11月の選挙で再び国民民主連盟が圧勝し、危機感を募らせた国軍が今年の2月1日にクーデタを起こすと、アウンサンスーチーはまたしても自宅軟禁下に置かれ、多くの市民の犠牲も出ています(写真④)。

 ビルマにおける民主化運動はこのあとも続くでしょう。そして「関与政策」という軍政寄りの外交を続ける日本政府も、ビルマの民主化のため、より積極的な役割を果たすべきでしょう。それが、ビルマの歴史に一定程度のバイアスを加えてしまった国の、責任の取り方だと思うのです。

■資料「独立宣言」1945年3月27日

……我々が今回結成した「ファシスト撲滅人民解放政府」とは、国軍だけが指導する政府ではない。ファシスト日本を追放するときにあって、ビルマ人の諸組織すべてが共闘し、国軍がその最前線に立って叛乱を成功させたあと、人民の多数派代表から成る人民議会に基づいて自由な政府をつくることを目標としている。我らビルマ人民の代表から成るこの政府は、①人民の平和、②食糧、および③衣服の確保、④人権と自由(公正な所有権)の確立などに責任を負い、問題を解決していく。
(根本敬著「物語ビルマの歴史 王朝時代から現代まで」から)

■もっと知りたいあなたへ

物語ビルマの歴史 王朝時代から現代まで」根本敬著
(中公新書 2014年)1100円(税込み)

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