織田裕二の脳裏に“自殺”がよぎった桐蔭学園高でテニス部時代の悲劇
テニス部時代の織田がまさにそうだった。四六時中、テニスのことしか考えられなくなってしまうのだ。練習に明け暮れ、オフの時の遊び場はテニスショップだった。
だが、その猪突猛進が悲劇を招いた。強くなりたい一心でトレーニングに励んだ結果、膝が悲鳴を上げた。医師からこれ以上テニスを続けていたら歩けなくなると宣告されたのだ。高1の夏だった。「脱線者」の冒頭にある“自殺”の2文字がよぎったのはこの時だ。自暴自棄になった織田を救ったのは音楽である。テニス部を退部し、持て余していた時間をバンド活動で埋めた。
■大学はピッツバーグ大日本校へ
大学はピッツバーグ大日本校に進んだ。ちょうどその頃、日本のバブルが始まろうとしていた。「各自治体がこぞって米国の有名大学を誘致するようになるんです」と振り返るのは文部科学省高等教育局の元職員だ。その数は約40校にも及んだ。
「ところが、それら日本校は旧文部省から大学としての認可を受けておらず、学生も思ったように集まらず、バブルがはじけるのに合わせるように、次々に撤退していくんです」(同)


















