【井上忠夫】のちの井上大輔が沢田研二に振りかざした「日本人論」とは?
これまで「沢田研二の音楽1980-1985」をご愛読いただきありがとうございました。ご好評のうち連載を終えましたが、著者のスージー鈴木氏には、まだまだ書きたいことが、山ほどあるのです! 今後は、連載で語り尽くせなかったエピソードやこぼれ話の数々を、「もっと沢田研二の音楽1980-1985」と題して随時掲載。「辞書」の体裁を取り、キーワード形式で、お届けして参ります。
初回は、あの人のエピソードから……。どうぞ!
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ジャッキー吉川とブルー・コメッツの井上忠夫、のちに(連載でも取り上げた)沢田研二のシングル『きめてやる今夜』(1983年)、『どん底』(84年)の作曲を手掛けることになる井上大輔のことだ。
連載では、彼のこの発言を紹介した――「ぼくたちが忘れかけた日本人の心を取り戻すためにやったことだ」。井上忠夫が、沢田研二との(まったく噛み合っていない)69年の対談で、自分たちの新曲『さよならのあとで』(68年)の狙いについて述べた発言だった。磯前順一『ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた』(集英社新書)収録。
日本ロック史の重要人物が「日本人論」を振りかざすことがしばしばある。ロック志向、洋風志向を突き詰めた結果、日本人としてアイデンティティーの危機に悩んだ末にそうなるのだろう。
ブルー・コメッツも68年にヨーロッパとアメリカを巡り、アルバム『ヨーロッパのブルー・コメッツ』『アメリカのブルー・コメッツ』を発表。アメリカでは、ビートルズも出演したあのCBSテレビ『エド・サリヴァン・ショー』に出演したのだが、そのとき演奏した代表曲『ブルー・シャトウ』には、驚くことに、キーボードの小田啓義が冒頭で琴(!)を弾くアレンジになっていたのだ。
日本人としてロックンロールを愛しながらも、いざ本場のアメリカ、ヨーロッパに行くと、日本人のアイデンティティーが揺さぶられ、結果「日本人の心うんぬん」を語りだす……。日本人音楽家の一種の定型パターンなのである(ただ井上忠夫は有楽町の料亭の息子で、『月の沙漠』に似た『ブルー・シャトウ』のように、元々作風も和風だったが)。
対して沢田研二は、古都・京都出身にもかかわらず、「日本人論」を振りかざす志向など一切見せずにここまで来ている。だから、あの対談が噛み合う理由など、初めからなかったのだ。そもそも沢田研二は、70を越えてもいまだに「ジュリー」なのだから。
■連載「沢田研二の音楽1980-1985」が書籍になりました。4月25日に発売!
「沢田研二の音楽を聴く1980-1985」(日刊現代・講談社 1980円)



















