長崎を熱狂させた海星・酒井圭一さんが当時を語る…プロ引退後はスカウトとして大谷翔平を担当
酒井圭一(海星・長崎・投手)1976年夏4強
■長崎駅に見たこともない人の群れ
1976年の第58回全国高校野球選手権大会の優勝は初出場の西東京代表・桜美林。その大会で「旋風」を巻き起こしたのが長崎・海星高のエース、酒井圭一だった。
長崎大会3回戦の島原中央高戦では初回先頭打者から16者連続奪三振を記録。県大会5試合で37回を投げ無失点。被安打はたったの4本だった。
県大会と西九州大会を合わせた予選7試合でノーヒットノーラン2度、51回連続無失点や通算70奪三振の記録を引っ提げての甲子園初登場だった。全国では無名の右腕はいつしか、恐竜の生き残りと言われた英国・ネス湖の「ネッシー」になぞらえた「サッシー」と呼ばれるようになる。
甲子園では、長崎県勢24年ぶりの4強の原動力となり、準決勝のPL学園戦は2-3で惜敗するも、5試合で被安打16、奪三振40、失点6の好成績を挙げた。
酒井氏が当時を振り返る。
「予選の活躍は関東の新聞では話題になっていたようですが、長崎ではまったくでした。異常な人気に驚いたのは甲子園大会が終わってからですね。大阪から新幹線で博多まで行き、特急に乗り換えて長崎に向かう途中、部長から、『長崎駅にすごい人だかりができているから、ユニホームに着替えてくれ』と言われましてね。駅に着くと、確かに見たこともないほどの人の群れ。あれには驚きました」
長崎に戻ると、日本代表に選出された酒井はすぐに大阪へ戻り、代表合宿に参加。韓国遠征(3勝3敗)を終えて帰国すると、マスコミの取材攻勢にあった。
「プロに行くのか、社会人や大学から誘われていないのかと、質問は決まっていました。その頃、恩師の井口(一彦)監督は、プロから話が来ているとか、大学から勧誘があるという話は一切しませんでした。自分自身は、ドラフトにかかればプロに行こうと思っていました。数日後、その意思を監督に伝えると、12球団が挨拶に来たと教えてくれました」
野球部員は甲子園大会が終わると合宿所を出たが、壱岐市出身の酒井は島から通学できないため合宿所に残った。
「学校まではバスで通っていました。まだ国体はありましたが、新チームの邪魔はできないので、練習といっても体を動かす程度でした。軽い練習が休みのときは、市内に住んでいる友人の家に遊びに行きましたね。街を歩いていると、方々から『酒井だ』『サッシーだ』と言われました。悪い気はしませんでしたが、当時は慣れていませんから気恥ずかしかったですね」