有楽町「ニュートーキョービアホール」蘇る親父と「銀ブラ」の思い出
日曜日の夕刻になると競馬中継を見終わった親父が「ザギンで銀ブラでもするか」と、いきなり言い出すことがあった。
今思うとそれは競馬で勝ったときで、実に分かりやすい親父だったのだが……。母親はじめ我々きょうだいはあたふたと用意して親父の後を追いかけた。そんなアタシと妹、弟、母親がよそ行きのちょいと気取った服を着てホコ天の中央通りを歩いている古い写真が残っており、そこには昭和45年と記入されている。ホコ天元年の年である。
銀ブラの目的は夕飯を食べること。銀座での食事は数寄屋橋のニユートーキヨーが多かった。それは親父がビール好きだったから。アタシと親父はいつもビフテキ。他の連中はグラタンやハンバーグなどを食べていたと思う。今ではビフテキなんて言葉は死語だろうが、昭和40年代ごろ、ビフテキといえばごちそうの代名詞だった。
アタシはニユートーキヨーで食べるまでビフテキが何のことか知らなかったが、そこで食べて初めてビーフステーキの略だと知ったのである。
そのビフテキを食べながら、大ジョッキをうまそうに飲んでいた親父の姿を思い出した。そういえばビアホールもご無沙汰だ。よし、ニユートーキヨーへ行ってビフテキと大ジョッキだ!