PL学園 堅守の裏に名ノッカーあり…河野有道コーチはとにかく寡黙。無言がかえって怖かった

僕がPL学園3年春にセンバツに出場した1992年から甲子園のラッキーゾーンが撤去された。本塁打は前年の18本からランニング本塁打1本を含む7本に激減した。第1号が星稜(石川)の怪物・松井秀喜で、開幕戦の圧巻の2連発を目撃し、衝撃を受けた。
そんな広くなった甲子園でも通用するべく、中村順司監督は肩が強かった僕をあえてセカンドで起用した。
一般的にセカンドといえば、小柄で俊足で守備範囲の広い選手が守るのがセオリーで、僕は足が速くなかった。それでも中村監督はこう言った。
「中継プレーとゲッツーを取るためにおまえをセカンドに置いているんや」
球場が広くなれば、走者一塁で打球が右中間を抜けた際、中継に入る二塁手の三塁への送球の距離は長くなる。バックホームもしかりである。
併殺の際、二塁ベースに入って一塁へ転送するピボットプレーも、ショートとは違い、投げる方向が体の向きとは逆になるため、肩の強さが求められる。
「だから、守備範囲より肩の強い選手をセカンドで使う」と他とは違う考え方だった中村監督に、スローイングについては「相手が捕球しやすい回転のいいボールを投げなさい」と言われた。
「腕は振るのではない。投げる方向に腕を伸ばすようなイメージで投げると、伸びるボールがいくし、方向も安定する。より正確なスローイングができるようになる」
中村監督の指導はいつも具体的だった。
「まずは守りから」というPL学園の方針のもと、中村監督の後に監督に就任することになる河野有道コーチ(当時)に守備面を鍛えられた。
直接的な指導は中村監督だったが、河野コーチはノックのスペシャリスト。狙った所に打つことができた。1歩目が速ければ捕れる所、横っ跳びすれば、数十センチ先を抜けるような、捕れるか捕れないかギリギリの所に打つのは当たり前。スライスやドライブする外野への飛球も自在に打てた。普通、ノッカーは「もっといけー」とか「捕れるやろー」とか声をかけながら打つものだが、河野コーチは
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