雑念だらけだった初の甲子園 星稜・松井秀喜の弾丸ライナー弾にPLナインは絶句した

厳しい練習や過酷な寮生活を乗り越え、目指すは甲子園出場。僕は1年秋からレギュラーに定着したが、やっと目標を達成できたのは3年春、1992年のセンバツだった。
PL学園はちょうど低迷期で、甲子園に出られないまま、2年秋の新チームを迎えた。副主将となった僕は「3番・二塁」で試合に出場しながら大阪3位で近畿大会へ。ここでも2勝を挙げて4強に入った。大阪大会に続き、準決勝で上宮に敗れたものの、選考委員会では文句なしに選ばれ、初めて聖地の土を踏むことになる。立浪和義さん(中日)らが活躍して春夏連覇を達成した87年以来、5年ぶりの出場だった。
1回戦の四日市工(三重)戦は14-1。2回戦の仙台育英戦(宮城)は3-1で8強に進出。準々決勝では東海大相模(神奈川)に0-2で敗れたが、僕は舞い上がっていた。3番打者なのに、こんなことを考えていたのだから……。
「少しでも甲子園の打席で、この雰囲気を味わいたいから、追い込まれるまで振るのはやめよう」
僕は本来、甘い球が来たら初球から積極的に振っていく早打ちタイプ。それなのに、いい球が来ても初球は振らず、一球でも長くこの場にいたいーー。そんな雑念だらけで打てるはずもなかった。3試合で9打数1安打。パッとしない成績で僕の甲子園は終わった。
エースは1学年下の松井和夫(稼頭央=西武)。秋の大会は右肘の故障で投げられず、背番号1だったセンバツも30~50球という球数制限があった。痛み止めの注射を打って準々決勝に強行先発したものの、東海大相模打線につかまった。
松井和は肩が強く足も速い。身体能力が高かったが、ケガが多く、高校時代は野球ができた期間は短かった。
強烈だったのは、星稜(石川)の松井秀喜(巨人)である。センバツ開会式直後の第1試合で度肝を抜かれた。185センチ、86キロ。すでにプロのような体格をしていた男は、前年夏に甲子園4強の立役者となった話題のスラッガーだった。
開会式に参加した後「せっかくだから松井を見てから帰ろう」となった。大会屈指の打者にスタンドの視線が注がれる中、僕たちPLナインはどこかでこう思っていた。
「松井がナンボのもんじゃい。どうせ噂だけ。本当は大したことないやろ」
しかし、その考えはすぐに吹き飛んだ。
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