「氾濫の家」佐野広実氏

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「氾濫の家」佐野広実著

「氾濫の家」というタイトルが不穏な家庭崩壊を予感させるこの小説は、郊外の住宅地で起きた殺人事件から始まる。隣家の主婦・妙子は聞き込みに訪れた刑事の話から、事件のあった家には別居中の息子がいることを知る。では昨日、ベランダからチラッと見かけた若い男がその息子?警察に話すべきだろうか。心が揺れる。妙子は50代初めの専業主婦だが、ひどく頼りなく、生気がない。

「長い結婚生活で自分がすり減ってしまったことに気づいていないんです。隣の殺人事件は妙子が自分の家庭を客観視するきっかけになるんですよ」

 妙子の夫、篤史は、今どきこんな男がいるのかと呆れるほどの男尊女卑。〈おい、飯は〉と言葉少なく居丈高、〈誰のおかげで食ってこられたと思ってるんだ〉とふんぞり返っている。妙子は抑うつ状態でクリニック通い、長女はさっさと家から逃げ出し、2浪の長男は父親を避けている。それでも篤史は見えを張り、家庭円満を装っている。

「いくら表面をとりつくろっても、一皮むくとこういう家庭って、あるんじゃないでしょうか。戦後の民主主義は男女平等や人権尊重を実現してきたかに見えますが、本当かな、という疑問があります。社会の考え方の方向が古い時代を向いているとしたら、これは昔の話ではなく、これからの話かもしれませんよ」

 令和のいま、強権的な夫・篤史も隷属的な妻・妙子も、過去の遺物に見える。だが、この国の家父長制は恐ろしく根深い。本作はそこを突いている。

 家庭でパワハラ、モラハラ全開の篤史は、建設会社の営業課長。学生時代のアメフト人脈で就職し、出世街道を歩いている。しかしこの会社の実態は、レイシスト(差別主義者)が経営するヘイト企業。保守派の政治家と組んで、ある地域開発プロジェクトを企てているが、真の目的は南米やアジアから来た外国人の集住地一掃にある。篤史は歪んだ“会社の正義”にどっぷりつかっている。

「レイシズムと女性蔑視はつながっていると思います。根底にあるのは差別構造と人権意識の欠如ですから。その共通の根を体現しているのが篤史かもしれないですね。社会で起きている問題は、企業にも、地域にも、家庭にも影響を及ぼしている。他人事ではないんです」

 さて、隣家で起きた殺人事件は、妙子の心の波紋を広げていく。ナイフで刺された隣家の主はテレビにも出ていた大学教授。平穏な家庭に見えたが、外からはうかがい知れない問題を抱えていたのかもしれない。そしてわが家も……。

 物語は、警察の捜査、妙子の目覚め、篤史の愚行が絡まり合って進行する。家庭の闇、企業の闇、社会の闇が暴かれ、濁流となって怒涛の結末へ。

「ミステリーではありますが、謎解きだけでなく、その奥にあるものを読んでほしいですね。社会問題を扱うときは、あなただったらどうするの?と問いかけるつもりで書いています」

 自分は篤史とは違う、と思った読者も、心のどこかに篤史の片鱗が潜んでいないかどうか、点検してみたほうがいい。 (講談社 2200円)

▽佐野広実(さの・ひろみ) 1961年横浜市まれ。横浜国立大学卒。私立中高の教師を経て作家に。99年、島村匠の名義で書いた「芳年冥府彷徨」で松本清張賞を受賞。2020年「わたしが消える」で江戸川乱歩賞を受賞。「誰かがこの町で」で同調圧力を、「シャドウワーク」でDVを描くなど、社会派ミステリー作家として知られている。

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