中江兆民、大隈重信らによって思想戦、言論戦に変化した
植木枝盛など高知の立志社の会員や、立志社に影響を受けた者の自由民権運動への挺身ぶりは並外れていた。立志社は「人民は国の本なり」と明言し、民会の成立で国家の基本をつくろうと、その覚悟を明確にしている。立志社に集まった者には士族の出身が多く、彼らは万民全ての平等を進めるには相応の時間が必要と考えていた。
民権運動の啓蒙家には数人の名が即座に挙げられる。代表的な人物として中江兆民を挙げていいだろう。兆民は土佐藩の足軽の子ながら、幕末に藩から長崎に送られてフランスの歴史などを学んでいる。学究派ともいうべきタイプであった。
兆民はさらに学を積もうと決意し、大久保利通に会って自らのフランス語などを認めさせ、岩倉使節団に参加した。3年ものフランス留学で哲学、思想、歴史などを学んで帰ってきた。大久保たちは官吏となってこの国の発展に尽くすように期待したが、兆民はそのような道は歩まず仏学塾をつくってフランスの民権論を青年たちに教えた。啓蒙家としての役割を果たすことに意を注いだのであった。