管理野球とチームプレーを持ち込んだ 監督・川上哲治の「実像」と「功罪」
ひとりでも反対方向を向く選手がいたら結束は乱れる。そのためグラウンド内外で選手を管理し、自己規律と組織として戦うことを求めたのである。
<「私生活を律しないといい選手になれない」>
巨人OB(昭和48~53年)の小川邦和氏は一度川上監督に呼び出され、
「言うのはこれが最後だ。仕事に影響するような私生活はやめた方がいい」
と注意されたという。
「当時は夜、飲み歩くことが多く、監督の耳に入ったのでしょう。そんなことを言われたのは初めてでしたが、ありがたかった。初めてといえばこんなこともあった。巨人が9年連続日本一を達成した昭和48年のこと。ミーティングで川上監督がナインを前にこう言った。『僕の犠牲になった選手もいると思う。もっと僕がいい使い方をしてやれたらと思うこともある。それは申し訳なく思う』と。いろいろな監督の下でプレーしたが、こんな言葉は聞いたことがなかった。逆に言えば、それだけ勝つために選手に犠牲を強いてきたのでしょう」(小川氏)
犠牲といえば昭和51年、立大から巨人入りした土井正三(故人)は川上監督からこう言われたという。