(1)長嶋茂雄氏の「逆転巨人入り」は、銚子の料亭旅館の仲居さんの一言から始まった
「東の長嶋、西の難波」がともに
巨人の作戦は巨人の影を見せないことだった。宇野は実家を担当。長嶋本人には立大先輩の新聞記者をつけた。その記者の自宅は立大グラウンドの近くだったから、立大OBの大沢と記者が見えない獲得合戦を演じていたことになる。
巨人は第2期黄金時代(51~53年)のあと、三塁手を探していた。55年は遊撃手の広岡達朗が守り、56~57年は二塁専門の土屋正孝。そこで獲得したのが「東の長嶋、西の難波」といわれた関大の難波昭二郎だった。当初、巨人が長嶋を狙っていなかったことが分かる。
難波が巨人入団を発表したのは57年11月5日。ところがその日、長嶋が立大の合宿所で「巨人に行きます」。来ないはずの男が、である。
期せずして、長嶋と難波は同じ巨人のユニホームを着ることになったが、2人の実績は天地の差となった。“燃える男”と呼ばれた長嶋に対し、難波は控えのまま61年に西鉄へ移った。
長嶋獲得のエピソードは数多い。最初に動いたのは広島で、長嶋とエースの杉浦忠、主将の本屋敷錦吾の三羽烏を囲ったが不調。長嶋と愛知県出身の杉浦が中日に入団を頼みに行ったとき「ちゃんと卒業しなさい」と拒否されたことも。この話に絡んで長嶋と同期の早大の森徹が「長嶋の兄が中日と関係があった、と聞いていたんだ。長嶋とオレで3、4番を組む、といわれたから中日に入ったんだよ」。
地方の仲居さんの一言で巨人がゴールデンボーイを手に入れた。くだんの大沢が言った。
「そういやあ、シゲは“南海に行きます”とは一言もなかったなあ」(敬称略=つづく)